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武道館なーーーう!!

Shota Shimizuさん(@s.shota0227)がシェアした投稿 –

清水翔太 18.09.10 武道館ライブを見た

清水翔太のライブを見るのは初めてのことだった。

正直、見てから一週間もたったし、その後もいろいろあったから、あまりエモーショナルな記事は書けないと思うけれど、感じた事を書いておきたいと思う。

ちなみに、「音楽ライブ」に対する俺の思いや考えは、以下の記事でほぼほぼ書いている。

読むのも面倒だと思うので、リンクの下に要約を載せておく。

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Perfume 「TOKYO GIRL」= マスターピース
1.「TOKYO GIRL」というマスターピース 例によって、それと知らずにPerfumeの新曲「TOKYO GIRL」のビデオを目にしたわけだが、その冒頭に引き込まれた。 シンプルで壮大なリズムと共に、東京の夜

要約:
「これからの時代、レコードの重要性が下がる」と言う人もいるかもしれないけれど、俺はそうは思わない。
レコードでも、ライブでも、広告などの力で入り口までは連れてくることはできる。
しかし、その人をファンにするには、音楽の力以外に無い。
世界最強のライブアクトの一人、ブルース・スプリングスティーンが語る、観客を引き付けてファンにしていく秘訣とは「自分のすべてだというつもりで演奏し、観客を納得させること。それを毎晩、毎晩続けること。」
レコードでもそれは同じだし、ミュージシャンとファンの最初の接点は、今までもこれからも、レコーディングされた形であることがほとんどだ。
——————————

 

清水翔太のライブ(生)

2018年9月10日の武道館において、その空間の出来事を何よりも特別なものにしていたのは、ステージと客席との「あたたかな一体感」だ。

「今日のみんな、ヤバいよ」ということは、清水翔太自身が何度も言っていたけれど、客席が一体となってステージに吸い込まれていくような、そんな集中力があった。

アリーナはもちろん、一階席も二階席も、全身が目と耳のようになってステージに吸い込まれていき、みんなが同時に笑って、同時に感動しているようだった。

 

観客席がもしも、無数の稲が生い茂る草原だったとしたら、清水翔太は風になって、稲を端から端まで撫でては同じ方向になびかせていた。

清水翔太がもしも、月だったとしたら、観客席は月に向けて寄せる海の波だった。

数千羽のフラミンゴが一斉に羽ばたくかのように、みんなは観客席からステージに向かって腕を伸ばして心を飛ばした。

 

それは奇跡的な出来事であると同時に、すべてが重なり合って生まれた必然でもあった。

美しい音楽や出来事は、偶然や奇跡で出来上がるわけではない。

清水翔太が積み重ねてきた時間や体験によって、それは作り上げられていた。

音楽的な試行錯誤、ファンとのコミュニケーション、セールスとのにらめあいっこ。

数々の模索の、一つの答えとしてのステージだった。

 

 

清水翔太はどちらかというとインドアなパーソナリティと制作スタイルを持つアーティストだとは思う。

しかし清水翔太は同時に、ライブ(生)に強いこだわりを持っている。

以下は、今回のツアーのZepp Nambaでの2Daysを終えた直後のツイート。

ライブ(生)における最も重要な要素はおそらく「インタラクティブ」であることだ。

双方向的でないライブなど、おそらく清水翔太はやりたいなどとは思わないのではないか。
(想像するのは難しいが、たとえばステージの音は観客席に生で届くが、観客席の音はステージに届かないような環境を想像してみる)

ある期間(今年であれば6月までの上半期)、清水翔太はスタジオで自分の音楽をつくり、レコーディングすることに費やす。

そして、自分のしていることが本当に正しいのか確かめるための最も重要な場として、ライブを位置付けていると思う。

その意味では、SNSやLINE LIVEも、密度は全然違うにせよ、同じような目的を持っているとも言える。(SNSはもっと「遊び」に近いと思うが)

そして武道館のあの一体感と、すべてを肯定するかのような「穏やかさ」は、清水翔太の歩んでいる道が間違いではないということの、証明になっていたと思う。

 

「穏やかさ」とは不思議だ。

清水翔太のライブにおける観客席は、熱狂的に集中しているのに、同時に殺気立ったりすることなく穏やかなのだ。

冒頭で俺は、それを「あたたかな一体感」と表現した。

清水翔太はこう言っていた。

「武道館みたいな大きいステージでやる時は怖いけど、今日の客席だったら大丈夫。ちょっと失敗しても、ちゃんとやり直せるって感じる」。

客席は信じているのだ。

清水翔太は完璧な超人などではないから、時には迷ったり失敗したりすることもある。

でも、それを乗り越えて、それも糧にして、自分の才能を必ず大きく発揮するような、そういう力が清水翔太にはあると信じている。

おそらくそれが、清水翔太のファンが「ファミリー」と呼ばれる理由ではないかと、俺は思う。

 

だから、清水翔太も、そういうファンのリアクションを信じている。

自分の音楽が変な方向に行っていないか、ちゃんとポップソングとしてのクオリティを発揮しているか、惰性ばかりの退屈なものになっていないか。

そういう「物差し」として、ファンのリアクションを信じている。

ファンを「仕事のためにどうしても相手にしなきゃならないわずらわしいばかりの商売相手」としてではなく、自分の音楽を成長させてくれる貴重なレスポンスとして、ファンのリアクションを信頼している。

 

Family

たとえばミスチルのライブに俺が行った時に感じた感覚は”非日常”で、「ディズニーランドに行った感覚」に近かった。
(ちなみにミスチルは俺の心のアーティストで、俺が人生で初めて買ったCDは『ボレロ』だ。)

もちろん会場の規模がまるで違うから比較はできないのだけれど、清水翔太のライブに行った時に感じた感覚は”日常”の延長線上で、「一年に一度会う地元の友人たちと久しぶりに顔を合わせて集まる感覚」に近かったような気がした。

ステージにいる清水翔太を、本当に身近に、親近感を持って感じると同時に、観客同士の横のつながりも、同じように近しく感じた。

なぜそう感じるのだろう。

すべてを語りつくすことはできないけれど、以下の2つの理由はあるのかなと思った。

  1. 清水翔太の音楽、MCなど、ステージからにじみ出る、飾らない人間性
  2. そんな清水翔太の「才能」に惚れて、弱さも含めて(少しハラハラしながら)見守ってきたファンの連帯感。(同じ人間に惚れた連帯感?)

 

すべてのアーティストが、そういうファンのコミュニティをつくれるわけではない。

かつて、ギターを抱えて観客席にダイブするというスプリングスティーンのスタイルについて、ミック・ジャガーが「とても信じられない」と感想を述べたという話を読んだことがある。

ミック・ジャガーにとってみれば、観客は危険な存在だ。

清水翔太の持つ何かが、そういうファンを作り上げている。

 

「ファミリー」にも2種類あって、

  1. 閉鎖しているファミリー
  2. 開放的なファミリー

があると思う。

「俺たちはファミリーだよな」と言っているコミュニティについて、外部から見た時に、ちょっととっつきにくく感じてしまうのなら、それは①だ。

 

俺はライブにおいて、「手のサイン」みたいなのを要求されるのが、あまり好きではない。

「この曲のこのフレーズのところでは、ぜひこうやって手を振ってくれ」とか、「私がこうやったら、みんなもこうやって返してね」とか言われると、「なんかダルい」と俺は思う。

別にステージの上からいちいちアーティストが要求しない場合でも、ファンたちの間で勝手に決めごととして確立されているルールみたいなのがあったりもする。

「この曲のサビではこうする」とか、「このフレーズに合わせてこうやって手を動かす」とか、その他細かいいろいろなものが。

俺はあんまりライブに行かないから、レコードを聞いていて好きになった曲をライブで聞いて普通に楽しんでいる時に、なんか周りの人たちが一生懸命「手のサイン」みたいなのをやっていて、俺が置いてけぼりになったりすることはある。

それで置いてけぼりにされて、「え、こいつニワカ?」みたいな雰囲気を感じたりするともう最悪。

「いやいや、ちょっと待て。俺はそんな幼稚園のお遊戯みたいなことをしに来たわけじゃなくて普通に音楽を楽しみたいだけだから、そんなローカルルールとか知らんし、知りたくもないし」という感じの気分になったりする。

 

清水翔太のファミリーは開放的だ。

単純に清水翔太の音楽を信じているし、新しいファンがこれからもどんどん流入してくるだろうことを信じているし、そう願っている。

ライブが終わった時、後ろの席の4人組の中の1人が、「な、最高でしょ?」と仲間に語り掛けていた。

他の3人は「うん、すごい良かった」とうなずいていた。

おそらく、その1人が仲間を3人誘って連れてきたのだろう。

この夜、初めて聞きに来た観客を、清水翔太は「観客を納得させて」、ファンを3人(俺の見た範囲で)増やしたのだ。

もっともっと多くの人に見てもらって、この輪をもっともっと大きくしていきたいというのが、ほとんどの清水翔太ファンの願いではなかろうか。

 

清水翔太の音楽を楽しむのに、ルールなど無い。

ただ、自分が信じた「清水翔太」という才能を楽しみに来れば、それでいい。

そして、俺は清水翔太のライブを楽しみながら、自分でも信じられないことに、あの「ペンライト」を欲しくなっていた。

もっともっと、清水翔太に「それでいいんだ。そのまま頑張ってほしい」という応援の気持ちを伝えたくて、そのためには暗い観客席からステージに明るさを届けるペンライトが必要だから、欲しくなっていた。

開場前に軽く物販スペースを見た時には「これベタなアイテムだよね」ぐらいに思っていたのが、いつの間にか「運営さんは、なんて便利なものを発売しているんだろう。買っておけばよかった」という気分になっていた。

 

「俺の才能は、みんなのためだけに使う」と誓った清水翔太も、同じ方向を向いている。

毎回全力を尽くして、来た観客を必ずロックしてロールして、清水翔太の音楽のファンにする。

ファンになった奴は全員ファミリーだ。

「いい音楽をつくる」。

それが清水翔太のやることで、「いい音楽」というのは清水翔太本人も観客も「最高だ」と納得するような音楽のことだ。

その信頼関係が、そこにあたたかいファミリーをつくりだす。

 

清水翔太は「日本のアーティスト」

9月10日、武道館で清水翔太のライブを見ながら、冒頭の4曲目にして、俺は確信していることがあった。

「清水翔太は、”アジアの清水翔太”にならなくてはいけない」。

武道館の天井からは特大の日の丸が吊られていた。

その旗の下でライブする清水翔太はたしかに、日本全国のどこでも通用する普遍的な強力なエネルギーを発していた。

俺は30代の中年男としてそこに立っていたけれど、もしも10代の頃に同じ体験をしていたら間違いなく涙を流し、この体験の虜になっていたと思う。

そして明らかに、その感情は俺一人のものではなかった。

武道館に詰めかけた数千の人々が同時に、同じ感情に胸を突き上げられていたと思う。

 

その普遍性と共感性の高さを肌で実感する時、「この音楽はアジアに共有される価値がある」と俺は確信した。

「日本の若者ってどういう感覚で生きていて、それを代表するアーティストって誰なの?」と聞かれた時に、「清水翔太」という存在がふさわしいと。

俺はブルース・スプリングスティーンの音楽や活動を通じて、アメリカに住む人の生き方や価値観を(断片的にであれ)知ったと思う。

清水翔太は、日本を代表するに値する。

それを俺は実感した。

 

しかしなぜ「アジア」なのだろう。

やっぱり同胞意識なのだと思う。

「日本の清水翔太」を、次に「俺たちの清水翔太」として感じてくれるのは、やはりアジアなのかなと。

たとえば俺がAdeleやUsherを聞いて「俺たちの音楽」だと感じる時、AdeleやUsherは「世界のアーティスト」だ。

もちろん清水翔太には「世界のアーティスト」になれる力もあるのだろうけれど、まずは「アジアのアーティスト」になることが次の一歩なのかなと、勝手に思う。

その時に、「言葉の壁」というのはやはりある。

俺はかつてBIGBANGが大好きで、韓国語で歌われる曲もたくさん聞いていた。

それでも、やはりたとえばRihannaやAviciiを聞くときと違って、全面的に「俺たちの音楽」として心に残る体験になっていないのは、言葉の壁があったと思う。

清水翔太が、その壁をどう超えるのかは、わからない。

日本語を覚えたくなるほどの曲のクオリティで勝負するのか、Utadaのように全編英語詞のアルバムをリリースするのか。

 

エド・シーランがインタビューの中で、セールスで唯一超えられていないのがアデルなのだという話をしながら、「でも必ず自分はアデルを超えられると思っている。もしもそう思っていないとしたら、自分で自分を見くびっていることになるからね」と答えていた。(ソース見つけられず)

清水翔太は、どこまで「自分にできる」、「やってみたい」と思っているだろうか。

それは、日本のポップミュージックがどこまで行くべきだと、清水翔太が思っているかによるのだろう。

 

これから

清水翔太のライブは素晴らしかったけれど、まだまだ「完成された」という感覚はない。

ライブを見終えた後にも、少し物足りない感覚はあった。

桁外れの動員数を誇るロックのレジェンドたちのステージがそうであるように、これからの清水翔太のライブは3時間を超える尺になっていくのかもしれない。

いつかはスタジアムツアーや、武道館での大型連続公演も行われるのかもしれない。

これは7月の音霊フェスを終えた直後のツイートだが、たとえば1万人を超えるような規模のステージで、あの「あたたかな一体感」をつくりだせるとしたら、それはものすごいことだ。

ライブ時間が3時間を超えたり、収容人数が数万の単位になるというのは、やっていることの基礎から組み替えるような作業を必要とするだろう。

それをやるべきかどうか、やりたいかどうかは、わからないけれど。

 

 

ライブを見た日の武道館からの帰り道、帰る電車の経路が、新宿三丁目駅で乗り換えだった。

俺は大好きな「べトナミング」に立ち寄った。

久しぶりだ。

 

ベトナミングのフォーは、俺を狂わせる。

まず、出されたままのスープをそのままいただく。

美味い。

しばらく麺を食ったら、レモンとモヤシを入れる。

酸味と歯ごたえが加わる。

美味い。

終わりが近づいて来たら、赤い唐辛子を、小さな匙でひとすくい入れる。

辛味があとを引く。

美味い。

麺を食し終えた俺は、スープを一口飲んでみる。

出汁と、酸味と、辛味が重なって、絡まり合う。

美味い、美味い、美味い。

 

普段から「塩分控えめ」を心がけている俺は、ラーメンやうどんのスープをほとんど飲まない。

飲むと気分が悪くなってしまうことがほとんどだ。

それなのに、ベトナミングのフォーのスープを前にすると、俺はとても自分を抑えられない。

「性的に興奮状態にある人は、自制心や判断力が極度に低下する」と言うが、ベトナミングのフォーを前にした俺も同じような状態になってしまう。

「このスープを飲まずして生き延びるよりも、飲んで命を落とすほうを俺は…」などという心境におちいる。

水、鶏、塩、ニョクマム、ハーブ、レモン、唐辛子。

そこには一つの奇跡がある。

他のベトナム料理屋のフォーではこういうことは起きない。

ベトナミングのフォーだけが、いつも特別なのだ。

 

清水翔太の持つ骨格や声帯、喉や胴体の肉。

それらを扱い、歌唱や演奏をくり返すことで、脳の回路がつながり太くなっていく。

そこに、古今東西の音楽を聞いたり、悩んだり苦しんだり、快感を発見したり、試行錯誤の経験が加えられ、言葉や音楽を作り上げる手法が高度化され、洗練されていく。

そうして、清水翔太にしか出せない味、鳴らせない音楽が出来上がる。

その必然という名の奇跡が、たしかにその夜もそこにあった。

清水翔太がその歩みを止めない限り、これからも、もっと上質な奇跡が起こる。

 

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