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俺はしばしば、「善良さ」について考える。

「善良さ」とは、俺の考えでは、「相手のために何かをすること」だ。

 

この世の資源は限られている。

我々にとって地球はこの世に一つだけの、表面積にも体積にも限界のある三次元的な惑星だからだ。

この資源の配分を巡って、人々はしばしば争う。

縄張りを確保しなければならなかった狩猟民族から、農地や水源を確保しなければならない農耕民族、原料や労働力や市場を確保しなければならなかった帝国、居住区や聖地を確保したい近代民族など、それぞれが生き延びるためにこの世に争いの絶えたことはない。

それで今でもこの世では、「争いに勝つ」ことは美徳だ。

「思い通りに生きる」ことこそ、その人の実力の証明だとみなされる傾向がある。

しかしそれが決して、絶対に望ましいことでもなければ、絶対に美しいことでもないということは、俺がしばしば感じることである。

以下より、男心に優しく染み込む名曲を3曲紹介する。

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歐陽菲菲 「Love Is Over」

自分の都合や要望を押し通すことこそが望ましいと信じ込んでいる男に対して、自分がいかに狭い視野で生きてきたかを思い知らせ、愕然とさせる出来事がある。

それが、誰かの「善良さ」に触れた時だ。

たとえば歐陽菲菲のこんな曲。

かつて、フットボールアワーの後藤がこの歌をカラオケで歌いながら号泣しているのを、テレビで見たことがある。

この歌には、男の心に染み込む何かがある。

 

自分が必死で「俺の」人生や、「俺の」都合をいかに実現させるかに心を配っていた時に、相手が最も心を配って優先していたのも「あんたの」人生や都合を応援することだったと知ったとき、男は愕然とする。

自分の視野の狭さや、根本的な生き方の偏りを、こんな時に初めて知る。

相手はもう、「あたし」の存在が「あんたに」とって重荷でしかないことに、気づいているのだ。

それがどんなに胸がつぶれるほど悲しくてやりきれないことだとしても、「あたし」の望みを殺して身を引こうとしている。

自分には痛みを残し、相手にとって一番良いであろう都合をつくる。

こんな自己犠牲にも近い「善良さ」に触れた時、男はそこに何か美しいもの、尊いものがあると感じないわけにはいかない。

そしてその類の美しさ、尊さが、自分の生き方にはあまり見当たらないようだということにも気づく。

なぜなら、そんな状況においても、男には相手に返してやれるものなど、何も無いからだ。

男が今までやってきたこと、今できることは、ただ自分の夢や人生の実現を追うことであり、この場においてはそっと立ち去る以外に無い。

 

BORO 「大阪で生まれた女」

夢や人生の実現を追う中で、自分はいったい何を置き去りにしてきただろうと、ふとふり返ることがある。

それもまた、胸を痛める経験だ。

チュートリアルの徳井が番組で涙を流したのが、BOROの「大阪で生まれた女」。

現在の社会で一般的に営まれている「家族(核家族)」の形には、どこか矛盾がある。

そこには常に、誰かの「自己犠牲」がつきまとうからだ。

妻(母)が夫を立てて自分の要望を殺してしまうか、夫(父)が「家族のため」に自分の要望を殺してしまうか、子が充分なケアを受けないか。

 

チュートリアルの徳井がスピードワゴンの小沢と一緒に暮らしているというのを聞いた時、「やはり徳井は違うな」と俺は感じた。

つまり徳井は、家族的なものを「家族」に求めるのではなく、友情関係の中でも実現できるのではないかということをやっているのだろうと、俺は解釈したのだ。

徳井のように女性を追いかけながら生きている男にとって、「家族」の形態は身にそぐわないものになるだろう。

だからといって、生きていく上で家族的な愛や肯定の関係といたわりを、無しで済ますわけにはいかない。

その際に、「家族」でなくとも、家族的なものを得られる場をつくればいいわけだ。

 

では、「自己犠牲」抜きで家族的なものは成立し得るのだろうか。

その話の前に、せっかくなのでショーケンによる「大阪で生まれた女」の熱いライブバージョン(1990年)を貼っておく。

俺が心を動かされたのはこちらのバージョンだ。

 

 

岡村孝子 「夢をあきらめないで」

もはや合唱曲としても使用されるほど市民権を得ている岡村孝子の名曲「夢をあきらめないで」だが、俺はこれは男女の別れの歌ではないかと思っている。

歌詞の内容では、具体的な背景は明かされないから、もちろん卒業式などにぴったりな「旅立ち」の歌ではある。

ただ、岡村孝子のソフトビッチな風貌だとか、経歴だとか、楽曲の数々を見る限り、俺には勝手にそうと思えるという話だ。

(このヴィンテージなギターと打ち込みの音響、最高だね)

そしてどうだろう、この「全肯定」とも言える歌詞。

この全面的な信頼と、形にならない応援こそ「愛」と呼びうるものではないかと思えてくる。

もしかしたら自分次第では避けられた別れかもしれないのに、それでもなお自分をここまで信じて肯定してくれる強さ。

そしてこの大きな肯定と信頼に触れた時、男は忘れていた何かを思い出す。

 

男が忘れていたのは、自分が他の人間から生まれて、他の人間に育てられたという過去だ。

大人になって体が思い通りに動くようになり、世の中で生きていく術も身につけると、自分がかつて一人ではとても生きていけなかったほど弱かったことなど忘れてしまう。

しかし誰もが例外なく、誰か他の人から生まれ、育てられ、いつも与えられることで、ここまで来た。

それを思い出す時、ではいったい自分は、今まで受け取る以外の何をしてきただろうかという疑問が生まれてくる。

夢を追いかけ、願いをかなえようとしている時、その先にいったい何があるだろうか。

名誉や尊敬や成功が、いったい何をもたらすだろうか。

どれだけのものを与えられ、手に入れれば、自分の挑戦は終わるだろうか。

いつまでも欲しがるばかりでは、与えられるばかりの子ども時代の延長線上にあり、何もできなかった子どもの頃と何一つ変わってはいないのではないか。

そんな自分が何かの事業を成功させたところで、いったい何に対して胸を張って誇りに思えるのだろうか。

 

「善良さ」とは「自己犠牲」なのか?

俺の考えでは、答えはNoだ。

与えることこそ、この儚い命における最大の実現だからだ。

子を産み、育てることに時間と労力を費やす母は、子のために身を捧げているのではなく、自らの魂の充足を求めている。

身を捧げることの悲愴さではなく、魂の充足の喜びを見出す時、家族に犠牲者はいなくなる。

「夢をあきらめないで」のさわやかな明るさは、これまでの共に時間を過ごせたことと、すでに手を離れたこれからの未来を楽しみに待てる喜びで満ちている。

そこには、別れることの喪失感はない。

最初から、いつか終わることなど分かっていた上で、それでも大切にいつくしんできたからだ。

いつか終わってしまうならおざなりに扱うのではなく、いつか終わるからいつくしむ。

ここに、儚い命を愛でる唯一の方法がある。

命とは、得たものを与えることで初めて完結する。

 

 家族という楽園

俺が思うに、この世に紛争の絶えない理由の一つは、キリスト教を駆動するのが不死への欲望だからだ。(これについてはいつか詳述する)

与えることの価値は、命の儚さと共に増す。

無慈悲な「終わり」を知って初めて、執着することに何の意味も無いのだと気づく。

死後の運命に怯える限り、人は自分を助けるために何ができるかに頭を悩ますのに忙しい。

 

トウェインやカーネギーの自伝を読むとき、俺を感動させるのは彼らのすさまじい勇気だ。

彼らは死後ではなく、生きているうちに楽園を築くことに決めた。

それはひるがえせば、2000年近くにわたって先人たちが築き上げてきた救いの体系の、外に出ることだった。

もはや、誰も彼らに何も約束などしてくれなかった。

それはどれほどの勇気だろう。

「永遠の責め苦に合う」と同胞たちから脅されながら、「私はそんなことはないと思う」と言い放ち、信じることができるというのは。

しかし彼らは平等主義の見地に立って世界を眺めた時に、同胞が為す非道な行いの数々に胸を痛め、キリスト教徒だからといって善良であるとはまるで信じなくなっていた。

そして彼らは楽園を築いた。

それは家族という楽園だ。

しかし最後にそれを手放さなければならなかった時、彼らはもう一度、最後のすさまじい悲しみと苦しみを得た。

トウェインもカーネギーも、家族を失うことを心底から恐れ、実際に失った時には悲しみに打ちひしがれた。

死後の世界など無く、この世で得たものも無慈悲に消え去るという、運命の過酷さを一身に受け止めた。

親たちの世代は死後を信じて善行を積み、そのように教えられて育てられたにも関わらず、である。

このすさまじい勇気。

 

俺たちは「最大多数の最大幸福」ではなく「全体最適」の時代へと向かう。

限られた資源で全員が幸福に過ごすためだ。

そこで求められるのは自身の利益を最大化することではなく、常に全体を視野に入れながら自身の振る舞いを調整する能力だ。

いよいよ賢くなる俺たちは、おそらく自分の運命をあらかじめ知る。

今でさえあらかた知っているだろう。

人生の「結果」は分かっている。

俺たちは死ぬし、誰もが別れる。

賢くなった俺たちは、これをあらかじめ知って、受け入れる。

そしてだからこそ、善良でいられる。

この運命に逆らおうなどという、横暴なことは考えなくなる。

我々が深いところにおいて、結局のところ「仲間」だということを、皆が感じる世の中が来るのではないかと思う。

 

もしも我々のすべてが家族になったら?

争いごとは無くなるだろうか?

いや、きっといつも争いごとで絶えないだろう。

我々がいつも親や兄弟と摩擦を起こしているように。

しかしおそらく、戦争はなくなるのではないか?

殺し合いではなく、調整で済ませる術を身につけるだろう。

そんなことを、考えている。

 

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