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ディケンズの小説をまだ読んでいない人は幸いである。

これから読むことができるのだから。

 

俺が『二都物語』を読んだのはつい数ヶ月前のことだ。

ジョン・アーヴィングが、小説を書き始めたきっかけとして、小学生の頃に読んだ『二都物語』を挙げていたのを見たので、いよいよ読んでみようと思った。

俺はそれまでに、『オリヴァ・ツイスト』と『ボズのスケッチ』と『クリスマス・ブックス』と『アメリカ紀行』を読んだことがあった。

それでディケンズがどれほど読むに値する作家であるかについては、ほぼ確信があった。

19世紀の文学ほど、俺を引きつける時代はない。

 

『二都物語』を読んでしみじみと実感したのは、筋の構成と人物造形の巧みさ。

俺は趣味で小説を書くのだが、この点における自作のあいまいさを恥じた。

もしもディケンズのように書きたいと思うのなら、それほど複雑なものは必要ない。

数奇な運命にある人物と出来事を、手に汗握る構成に仕立て上げ、人物の個性を際立たせて愛すべき人間を誰もが好きになるように、憎むべき出来事に誰もが腹を立てるようにする。

土地と時代を効果的に描写し、涙や笑いを強く喚起するドラマを用意してためらうことなく盛り上げる。

人生に対する鋭い観察眼と気の利いた言い回し、それに小説とこの世界に対する本物の愛と思い入れを散りばめる。

こういう事ができれば、きっと俺も人気作家になれるだろう。

簡単なことだ。

 

『二都物語』を半分ぐらいまで読んだ時、シドニー・カートンという人物の境遇に胸をうたれた。

それほど重要な役だとは思わなかったが、なんだか痛ましくて悲しかったのだ。

俺もかつて、悪癖に青春の多くを費やした。

自らの境遇を正確に見抜いていても、あらがえない性分というものがある。

悲しいことだ。

 

ディケンズの小説の登場人物について語る時、その「役」という言葉が自然に出てしまう。

それだけ、ディケンズの小説というのは舞台的だ。

イギリス文学の一つの主流は、常に舞台芸術と共にある。

シェイクスピアしかり、モームしかり。

中でもディケンズほど、イギリスを代表するにふさわしい作家は他にいないだろう。

映画『アバウト・タイム』の中で、時を自由に行き来できる能力を持つ主人公の父親(脚本家)は、それだけ豊富に使える時間をいったい何に費やすのかと質問されて、こう答えた。

「ディケンズを読むのさ」。

 

『デイヴィッド・コッパーフィールド』をまだ読んでいない俺は幸いである。

これから読むことができるのだから。

 

 

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