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ここ最近、3年間ほどのことだと思うが、俺の生え際は後退している。

もともとヒタイの広いほうで、たとえばプールで期せずしてオールバックになってしまい生え際を晒す時など、友人に笑われたりなどしていた。

それがここ数年で、目に見えて「ヤバイ」領域に踏み込んできたと思う。

同級生の女子などにふざけて髪を持ち上げてヒタイを見せると、「キャー」と甲高い悲鳴が上がるほどだ。

2人の祖父、そして父と、俺の知る限りの男系のご先祖達は、そろってハゲの系譜だから、昔から覚悟はしていた。

ただ、思っていたよりは早かったな、という感想だ。

 

かつてフーコーが「自分のヒタイが日に日にせり上がっていくことに私は絶望していたのだけど、ある時思い切って全部剃ってしまったことで、私はその問題から開放された。」というようなことを言っていたらしい。

俺も自分の運命に抗うよりも、どのように受け入れられるかを模索する道を選びたい。

たまに、仕事などで調子がいい時は、むしろハゲを大人の余裕と茶目っ気として、上手く肯定できている気分になる時もある。

 

 

今日は妻が出かけていたので、俺は1歳3ヶ月の娘と二人で家にいたのだけど、やはり家の中ではお互いに息がつまるしやることもなくなってくるので、「仕方ないや」と出かけることにした。

(ちなみに俺自身が一人であれば、家の中にいるからといって飽きたり息がつまるということはほぼ絶対にない。子供と二人きりで家の中に閉じこもっているというのは、非常に大儀なことだ。保育園の幼児達がほぼ必ず散歩に出かけるのも当然の事なのだ。)

それでまぁ、なんとなく投げやりな気持ちになっていた俺は、「意味もなくジャケットを着る遊び」をすることにした。

ちょっとそこまで何の目的もなく出かけるだけなのに、意味もなくジャケットをラックから引っ張り出して、肩にかけた。

そうしてみると、インナーも替えたくなり、最終的にはボトムまで替えていた。

(ちなみに俺自身は、日常生活の口語の中で「インナー」や「ボトム」という単語を口にすることは無い。文語での表現上の問題である。)

そして、そうしてみると不思議と心にハリが出る。

装いを替えることは、心を着替えることなのだ。

そうして俺は、普段はまず使わないバギーまで引っ張り出して、娘を乗っけて出かけたのであった。

(ちなみに俺自身は、日常生活の口語の中では「ベビーカー」と呼んでいる。)

 

「ハゲを受け入れる」ことと、「見た目に頓着しなくなる」ことは、同じではないどころかほぼ対立する心の働きだと思う。

俺自身は「大人になりたい」と願ったことはないけれど、時の流れは否応なく俺をどこかへ連れてきている。

その時の自分に応じた何かを取り入れ、順応していくしか無さそうである。

 

 

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