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20代の中盤から、俺は会社員として働くようになった。

会社で働くようになってから感じた悲しいことの一つは、カラダの自由が失われてしまったのを感じることだ。

俺みたいに「アタマお花畑」状態で入社してきたボンクラをまともに使える人材にしなきゃいけないから、会社はいろいろと世話を焼いてくれる。

規律と訓練をカラダに叩き込んでくれる。

それを面と向かって叩き込むのではなく、それとなくさとすように、先回りして逃げ場をつぶしてからほんの少しだけさりげなく背中を押すように、見事に責任を回避しながら言外のニュアンスだけで伝えてくる。

口先の理屈や権利意識だけは強い俺みたいな青二才を飼いならすのに、真綿で首を絞めてくるかのようなその手法は、露骨に効果を発揮した。

 

ちょっとステップに遊びを入れて歩いたりなんかすると、「へー、機嫌いいじゃん」と声をかけられる。

ゴミ箱に向けてスナップスローで狙いをつけてゴミを投げたりなんかすると、「その動作、要る?」と質問される。

待ち時間に壁にもたれかかってたりなんかすると、嫌な顔をされる。

 

こういうことの一つ一つが、俺は本当に悔しかった。

「チクショーこれがパノプティコンか」とののしりながら、流砂に飲まれるように少しずつ身動き取れなくなっていた。

それまでの俺はちょっと変なこだわりのある人間だったから、一番カッコいい自分であるためにどんなふうにカラダを扱ったらいいか考えて、少しずつ上手くやれるようになっていたはずだった。

生活の時間の大部分を会社で過ごすうち、そういうこだわりを少しずつ手放していくのが悲しかった。

カラダの自由を手放していくうち、俺はだんだん、一つ一つの細かい不自由や違和感を、いちいち気に留めずに反射的にあきらめるようになっていった。

ココロを殺すことで、会社で生き延びることにした。

カラダの自由と一緒に、ココロの自由も手放していった。

 

映画や、スポーツや、街角で、こだわりに満ちた所作でカラダを優雅に扱っている人を見ると、俺は嫉妬する。

「ああでありたかった」。

そういう自分でいられなかったのは、ある意味で自分の弱さだし、ある意味で自分の機転が足りないせいでもある。

何か仕事をするのなら、人に信用されなくてはならない。

人と違う所作で生きながら、人に信用されて価値を生み出せる人もいる。

それが、俺にはできていないだけだ。

 

 

クラウドワークス社長 吉田浩一郎さんの、このブログを読んで泣いた。(泣いてないけど、泣いた)

「あなたは認められた存在であり、あなたが自分で考えたあらゆる手段を実行できる状態をサポートします。そこであなたがワクワクしていれば自然に目標も達成しているでしょう」
あるいは
「目標を達成することは大事ですが、それ以上に、自分の考えで試行錯誤することが大事です。それが当たり前になれば、自然に目標も達成されていくでしょう。」

俺はまだまだ「会社」というやつにビビっている。

最初に所属した会社が思いっきり管理された集団作業が必要な業種だったし、そもそも俺自身が自分を否定しがちな性質を元から持っていたのもある。

だから、こんな記事を読んで、こんなにも会社が個人に対して譲ってくれると、「え、会社に属しながらそんなに自分を大切にして、いいんですか?」という拍子抜け感を、まだ抱いてしまう。

「当事者意識を持て」という言葉は、現段階のメンバーの思考を否定するニュアンスを含んでいると感じています。今のあなたではなく、もっと意識を引き上げろ、もっと高みを目指せ、今のあなたよりもっとできるはずだ、というニュアンスですね。

(中略)

「当事者意識を持つと幸せになれるが、当事者意識を持たないと幸せになれない」という条件付きの承認。

今の時代は未来が不確実である以上、現在という時間軸で今のメンバーを承認、肯定するマネジメントが求められているのだと考えています。

その意味において、今のあなたを否定するニュアンスを含む「当事者意識を持て」という言葉は死んだ、と感じています。

会社に所属する以上、会社の価値観、基準、規律で行動しなければいけないと思っていた。

自分が会社についてどう思うかではなく、会社が自分についてどう思うかが大事なのだと思っていた。

会社にいる間は、自尊心を切り売りして、会社の承認を買いながら生きるしかないのだと思っていた。

 

先日お話しする機会のあった、ある会社の社長に言われた言葉。

「強くなければ優しくなれない」

「道徳無き経済は悪。経済無き道徳は寝言。」

その通りだと思う。

ひとまず一元的に単純に言って、強さ=経済、だ。

自分を否定せずに経済的価値を生む手法を、俺はまだ見つけていない。

 

 

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