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流されながら『キャロル』を見た私
WIREDに書いてあることなら何でも真摯に受け止めるという、「WIREDの萌え豚」と化している私は、以下の記事を呼んでさっそく映画『キャロル』のDVDを借りてきた。
で、見た。
ケイト・ブランシェットとルーニー・マーラという二人の女優と、それと映像へのこだわりをずっと見ていた。
つまりそういう体験だった。
ヨーロッパ映画的にじわじわじわじわ進んでいく物語の中で、ケイト・ブランシェットは最後まで完璧にキマっていて、ルーニー・マーラはふわふわとキュートだった。
たぶん、ディズニーとジブリ以外の映画を見るのが久しぶりだった。
映画って面白いのだなとなんだかとりとめもなく思った。
当たり前だけど、映画は映像で語れる。
映像を撮る、映像を見る。
今ではすっかり日常に馴染んでしまったようでいて、やはりそれぞれ当たり前の体験ではない。
身体の動きをじっくりと目で追い続けるという体験は当たり前ではないから、映画を見た直後には、自己認識に何かの変化が訪れている。
小説もまた、自己認識に変化をもたらす。
他人の内面をじっくりと文字で追う経験もまた、当たり前ではないからだ。
『キャロル』を見ながら、じっくり、じっくりと、映像を目で追い、二人の心の機微を追ったのであった。
けっして刺激がふりそそぐような映画でなく、こちらから集中して「取りにいく」ことを求められるがために、いろんな意味で濃密な2時間。
映画的な、濃密で幸福な2時間。
『キャロル』のファンダムに自分が参加することがあるとは思わないけれど。
でした。
(全然ホントにまったく関係ないのだけど、「キャロル」という言葉を聞くとなぜか以下のビデオを思い出す。「ジョーイ」だから、ホントにまったく関係ないのだけど)
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