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’80年代は遠くなりにけり

ここ数年に見た中で一番印象に残っているビデオはJustin Bieberの「Sorry」(ダンスヴァージョンのほう)。

音も最先端でかっこいいんだけど、やっぱりこの映像だよね。

見る人を最高に元気づけてくれる一流のダンサーたち。

見てて楽しい、体を動かしたくなる、個性を解き放っていいんだと伝えてくれる。

自分自身である事を楽しみたくなる。

過剰で濃密でヴィヴィッドな’80年代リバイバルもここに極まれりって感じで、「Express Yourself」とマドンナがアジったあの時代の生き方を思い出させてくれる。

 

で、個性について考えていたら、思い出したことがあった。

このブログにたどりついた検索ワードを見てたら、「西野カナ 芸術じゃない」みたいなのがいくつかあって、何のこっちゃと思ってググったら以下のページにたどり着いた。

NO-OR|作詞:西野カナの反芸術性

どうやら、マツコ・デラックスが西野カナの歌詞を批判していた事で、その種の論争が起こっていたようだ。

で、いつのことだね?と思って日付けをみたら2010年とかなので、もはや議論を取り巻く環境が様変わりしているのだけど。

マツコ・デラックス自体はたとえば「界遊」でのインタビューで語っているとおり、「新聞やテレビみたいな斜陽産業と一緒に死んでいく」覚悟のある20世紀型の人間だ。

「個性を発揮しろ」と「先生の言うことに逆らうな」と「入試で良い点取れ」という支離滅裂な要求の中で右往左往していたビーバップハイスクールな世代の方々にはお気の毒だが、もはや「個性」も「学歴」も重要なトピックではない。

祝☆レコード大賞! LOVE – 西野カナが俺たちにくれたもの
赤ちゃんを抱きながらテレビを眺めていた俺に飛び込んできた光景。西野カナレコード大賞受賞!西野カナがいつもとどけてくれる「LOVE」にありがとう。西野カナが特別なアーティストである4つの理由がここに。J-POPを聞いて元気が出る理由も。

 

豊かさに向けて

「『ありがとう、君がいてくれて、本当よかったよ・・・』なんて詞をどう解釈しろというのよ。どこに心の機微があるの?「ありがとう」ということを自分なりの言葉に代えて表現することこそが、作詞活動じゃないの?
あのボキャブラリーでよく歌詞なんか書こうと思ったものね。あんな三歳児でもわかるようなフレーズじゃないと、今の若い子たちは共感できないの?そんなに想像力がなくなっているの?あの稚拙な歌詞を見せられて、『小学生の読書感想文じゃないんだぞ』ってツッコミすらできないの?
等身大の思いというのは、いつの世にもあったけど、自分のことを世代の代表として選ばれたアーティストとして自負しているなら、カッコつけようとかプライドがあるはず。でも、それが西野カナには微塵も感じられないのよ。
彼女だけが問題じゃない。こんな薄っぺらい歌詞を、何の疑いもなく支持してしまっている女子高生たちの精神構造もわからないのよ。与えられたものを、何も考えずにそのまま受け入れているだけ。だから、あんな詞に対して『そうだよね。わかるぅ。友達と会えてよかったよね』ってなるのね。」

(マツコ・デラックスさんが実際にこんなこと言ってるのかは、俺は当該の本を読んでいないのでわかりません)

 

俺が西野カナの歌詞や、かつて「テラス・ハウス」でダイキや王子や華ちゃんやあやちゃんの身振りや態度に大切な何かを学んでいた時、そこに感じていたのはむしろ、言葉の端々のニュアンスにまで張り巡らされた、微細なセンスと気遣いだ。

ほんのわずかなニュアンスの違いで、誰かと気分良く一緒にいられるかいられないかの違いが生まれる。

そして何よりも重要なのは、「当たり前のこと」を当たり前に言葉にして伝えられるということだ。

それは初めから当たり前なのではない。

当たり前にすることで上手くいくことに気づいた一人ひとりが、当たり前にできるようにそれぞれ努力した結果としての当たり前だ。

「ありがとう」や「ごめんね」や「大丈夫?」や「嬉しい」を言葉にすることが、どれだけ重要かということに、みんな気づいている。

 

西野カナの歌詞が没個性的であることが示しているのは、それだけ現代の言葉が平準化されているということだ。

俺たちは人との違いを競い合うよりも、人との違いを減らしてコミュニケーションを円滑にするほうを選んだ。

その結果として得られているのが、理性的な現代文明のコードの、高度なレベルでの個体間の共有だ。

西野カナは別に最初から、カッコつけようとか実存の不安を鋭く時代に打ち据えようとかを目指してはいない。

西野カナの歌詞は取材とマーケティングを駆使しながら書かれているのであって、いわばこれはAIと同じ手法だ。

「個性」や「独自性」には、最初からフォーカスしていない。

 

これは俺の想像でしかないのだが、たとえば今の大学生30人に「個性的なことしたいか?」って聞いたらたぶんほとんど「No」だけど、ある特定の商品を特定のセグメントにアピールする戦略をつくれって言ったら、たぶん6グループぐらいに分かれて、同じ課題に対して6通りのそれぞれに異なる戦略をつくってくる。

それって一人が個性的であるよりなんかすごくね?、と俺は思う。

グループの中でそれぞれの個性は発揮されているわけだけし、その結果として6通りの戦略ができるのだから、それも十分個性的だろ、と俺には思える。

ただ、その個性でさえもあまり重要なトピックにならないのは、上記の課題程度ならそのうちAIのほうが上手くやってくれるようになるから。

じゃあ今の若者が、その代わりにいったい何にフォーカスしてるのかっていえば、たぶん「心地よくあること」。

なぜかといえば、肉体労働はもちろん、知的労働すらも人間の仕事でなくなった先で、人間が集中すべきことといえば、その環境の中でいかにより心地よくいられるかを追求することだから。

他人に抜きん出てより多くの資源を獲得することじゃなく、環境の中でいかに心地よくいられる空間や関係を作り上げられるかってことが、クリエイティブだってことにこれからはなるんじゃないかと思うんです。

そうすると、他人とコードはなるべく共有していたほうが合理的だから、必要十分で過不足ない言葉が求められる。

「個性的」とか言ってそのコードを不必要に壊すやつは、端的に邪魔だから相手にされなくなる。

だからといって逆に、周囲に合わせるばかりで空虚なやつも、他人に与えるものが何も無いから相手にされなくなる。

個性って、これからはそんな風に生かされていくんじゃないかと思います。

自分と周りを心地よくするための大切な資源としてね。

 

で、改めて冒頭の「sorry」のビデオを見てみると、あのダンサーたちが作り出す雰囲気って、一人ひとりが好きなことを練習してスキルを高めた先で、自分なりの力を発揮して楽しそうで調和がとれていて優しそうでなんかいいなと思う。

西野カナも、豊富な資料あつめて優れた戦略であたたかい歌詞書いて、いい声でかっこいい歌聞かせてくれて最高だなと思う。

あとは、西野カナがその立場を楽しんでくれていることを、俺は望むのみだ。

 

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