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春だから

森進一 「襟裳岬」(1974)

夕飯の時、「春が来たんだねぇ」と妻がつぶやくので、俺は「襟裳岬」を歌った。

 

太田裕美 「木綿のハンカチーフ」(1975)

話しているうちに、「木綿のハンカチーフ」は悲しい歌だよねぇ、と妻は言った。

 

ちあきなおみ 「喝采」(1972)

それで俺は、「木綿のハンカチーフ」はまだ次の恋を見つけられそうだと笑い飛ばせる気がするけれど、「喝采」はなおさら悲しいと思うなぁと言った。

 

 

春だからといって

俺たちはもう、昭和の時代のこの激しくて深いドラマに心から共感する事はできないんだろうねぇ、と俺と妻の意見は一致した。

「東京」が、日本のどこかの地方と別世界だとは思わないだろうし。

たとえば東京と北九州に離ればなれになった恋人達だって、現代ならばLINEで四六時中やりとりして、時間が合えばスカイプするんだろうし。

 

「人影も見えない午前零時 電話ボックスの外は雨」って、「電話ボックスの外は雨」な境遇を理解できる想像力がいつまで受け継がれるかという話だ。

 

誰もいない道路にポツンと置かれた電話ボックスで、誰も出ないだろう電話のコール(あるいは出たところですれ違うだけの会話)の虚しさに潰されそうになっている上に、外には雨まで降り出した日には、そりゃ「レイニーブルー」な気分になるわけですよ。

電話ボックス

この、人間の背丈ほどの透明な箱の中に音声通信の端末が白い光に照らされて空中に浮かび上がっているという、たたずむだけでドラマを語りかけてくるエモーショナルな存在。

かつてはこれが、日本のそこら中の通りに散りばめられていた。

 

さらに「襟裳岬」や「木綿のハンカチーフ」や「喝采」の時代には、携帯電話はおろか、留守番電話すら存在しない世の中だったわけで。

グーグルマップもフェイスブックも無く、いったい何が待ち構えているのか想像もできない「東京」という見知らぬ複雑な世界に、大切な誰か(あるいは自分自身)が飲み込まれていくという不安。

そもそも電話すら持ってない一人暮らしの世帯なんかもいくらもある中で(「電話加入権=80,000円」とかいう、今から見るとすさまじくあこぎな商売ww)、10円玉握り締めてカフェや居酒屋の赤電話から電話するなんていう行為も生まれる。

そりゃあ、たまたま電話がつながって話しているだけでも、何か特別な気持ちにもなるわなぁと思う。

TM Networkのこれは1987年の曲だから、留守番電話も登場した後だけれども。

(ちなみにこの曲のインスピレーションになっていると思われるElectric Light Orchestraの「Telephone Line」は1976年)

 

テクノロジーと実存

そのうちに、LINEやスカイプどころか、どこでも名前を声に出すだけでその人に繋がるという、ほとんどテレパシーに近い領域で人間はコミュニケーションをし始める。

その時に、たかが500キロ程度離れたところに進学や就職していくだけで、今生の別れのように引き裂かれる気持ちを感じていた時代の感覚を、どの程度まで理解できるのだろうか。

どんなに時代が変わっても人間の本質的なものは変わらない、と、たとえば「文学好き」を自称しながら語る人もいるけれど、その場合に想定されている「本質」って何だろうね、と俺はしばしば疑問に思う。

「まぁ人間だから、メシ食って排泄して眠るだろうね」、っていうかなり身体化されたレベルまで「本質」のレベルを持っていくにしても、その時に想定する「食事」一つ取ってみても、今後数十年でどこまで変化するか正確に予測する事は不可能だろう。

テクノロジーは実存を変えるし、実存もテクノロジーを変える。

テクノロジーが加速度的に変わるという事は、実存も加速度的に変わるという事だろう。

 

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