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謝辞と前書き
タイトルの「求めるよりも、与えよう」は、山下智也.comのキャッチコピーからいただきました。
Googleでヒップホップ関連の検索をすると上位に出てくるのでこのブログを知ってる人も多いかもしれないけれど、日本語ラップへの愛に溢れたこのブログは、俺のお気に入りのブログの一つ。
SEOや収益化を始めとしたブログ運営のレベルの高さと、コンテンツ内容への本人の興味・関心が比例している幸運な例だ。
いろんな角度からかっこいいブログなので、みなさん見てみてください。(勝手に引用してすみません!)
俺も理想としてはこのレベルの集客力を目指したいとは思っている。
ただ、書いてみると結局、内容にしてもデザインにしても、マーケットよりも自分自身の興味やこだわりを優先してしまうのだから仕方ない。
せっかくウェブ上に自分の場所を作っているのだから、人に気遣ってばかりでも面白くないよなと思っている。
だからといって人が来ないのもつまらないので、両立が前提なのだが。
以上、前書き。
寝ている妻を起こさなかった話
昨日のことだ。
3週間前の日曜に妻が子を産んで以来、週末は必ず妻の実家で過ごしている。(この記事を書いている今日は月曜日)
妻は俺との家の他に、すぐそばにもう一つの家(つまり、いわゆる「実家」)を持っている。
妻の母がいて父がいて、妹がいて祖父がいる。
ありがたいことだ。
こういう、「家族」的な根本的な肯定の関係性を、世の中にはもっと増やさなければならないと、俺は思っている。
「家族」という限られた形式の中に、家族的なものが閉じ込められているのはもったいないと感じる。
家族的な肯定の関係は、生きていく上でとても良いものだからね。
だが、今は別の話だ。
昨日の夕方、18時から20時の間、妻と子は寝ていた。
子が寝て、哺乳瓶やおむつや洗濯物などの雑事も片付いている。
こんなすっきりと空いた2時間がとてもありがたいものだということは、乳児に関わったことがある人になら理解してもらえるところだろう。
ただ、この2時間は、あくまで妻の母に洗濯と夕飯の準備を頼っているからこそ生まれた時間だということは、是非とも言い添えておかなければならないけれど。
この2時間、俺はじっくりと時間をかけて本を読んでいた。
ペンを持ちながら心を込めて向かい合うのに値する、人生でも滅多に出会えないほどの素晴らしい本だ。
50ページほどを読んだところで、予定の時間が来たので妻を起こしに行った。
子に食事を与えて、俺と妻の食事も摂らなければならないような時間になった。
俺のアタマの中に描かれた計画では、以下のようになっていた。
10分 | 20分 | |
俺 | オムツかえる | 夕飯の準備する |
妻 | 搾乳しておいた母乳を温める | 母乳与える |
そういう計画で妻を起こそうとしたところ、妻はいかにも眠そうな様子で起きるのをためらっている。
昨夜も睡眠時間は限られていたし、眠れた時にはできるだけ長く眠っていたいという気持ちは痛いほどよく分かる。
「もうちょっと寝かせておいてあげたいな」と考えていた時、俺はすぐに閃いてしまった。
「そうか、全部俺がやればいいのか!」
そう閃いた俺は、嬉しくなったし、最初からそれを思いつかなかった自分を少し恥じた。
計画にある工程を俺が全部やれば、その時間に当然妻は寝ていられる。
しかも一人でやる分、作業時間は伸びて、夕飯の時間が少し遅くなるので、妻の寝ていられる時間がさらに少し伸びる。
俺はいそいそと妻の枕元から立ち上がり、まずは哺乳瓶を冷蔵庫から出してすぐに温められる状態にしておくために動き出した。
それからすぐに、オムツを替えて母乳を温めて、飲ませるのだ。
妻の役に立てることが嬉しかったし、その手順を何度もやってきたおかげで、すべてを一人でスムーズにできるような自分になれているのも嬉しかった。
俺は鼻歌など歌いながら、うきうきと手を動かした。
人の役に立てることが嬉しいという、素直な気持ちを、なんだか自分のことなのに愛しく感じた。
広告これからの経済の話
自分のために誰に何をさせるかではなく、誰かのために自分に何をできるかを思うと、心がすっきりと嬉しくなる。
俺は、これからの経済は、この方向に進むべきだと思っている。
これは別に「べき」論の倫理的な根拠で言っているのではなくて、資本主義についてよく考えてみると、そうなるより他に希望がないという論理的な根拠で言っている。
これ以上、資本が蓄積されたところで、使う先がないからだ。
これ以上、生産性が上がったところで、売る先がないからだ。
俺が昨日読んでいた本は、俺のこの感覚を裏付ける内容で、大きな勉強になった。
俺の直感は少し合っていて少し間違っていたのだと、教えてくれた。(これについてはいつか細かく語る)
俺たち若い世代の購買意欲は落ちて、収入への意欲も落ちている。
「1円でも多く売り上げて、1円でも経費を削ろう!」と会社に言われたら、「何のために?」と問わずにいられないのが、俺たちの世代だ。
会社の存続のため、売上げを上げて経費を下げるのが至上命題なのはわかっている。
生産性(の上昇)に寄与することで、自分たちの(歴史的に見て相対的に)豊かな生活が成立しているのもわかっている。
それでもなお、会社が存続するには目的や意義を求めたくなるし、生産性を上げるなら役に立つ目的の仕事でありたい。
そうでないなら(目的も意義も本当に存在しないのなら)、その会社も仕事も、社会にとっての一つの「ロス」であり、むしろ全体の生産性のために「省いた」ほうが効率的で世の中のためになるからだ。
存在するために存在して、生きるために生きることに血道を上げてる人を、世の中的には「フリーライダー」って言うんじゃなかろうか。
じゃあこういう会社や人を排除す「べき」って俺は言いたいんじゃなくて、いずれ排除さ「れる」ってことを俺は言いたい。
経済の効率性(市場の効率性)ってのは、それぐらい無情で無常なものだと思う。
結果的に問われていくのは、「何を獲得できるか」「何を持ってるか」よりも、「何をできるか」「持っているものを何にどう使うか」になる。
そして「誰かの役に立つ」というのは、するほうにとってもしてもらったほうにとっても気持ちのいいことだから、いわゆるWin-Winなわけだし、社会的にも有用だから存続する。
こういう社会って、なんだか希望ですねってことが言いたくて、俺はこの記事を書いている。
言いたいなら、「言いたい」なんて言ってる前に言えばいいじゃん。
一流の殺し屋は「殺す」なんて言わなくて、「殺した」しか言わないんだし。
ってことで、言いました。
もうちょいちゃんと言えるように勉強します。
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