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イントロのかもし出す「名曲感」がヤバいのが、この「Good Life」。

超濃密な一つ前のシングル「Fire」から、アルバム『FLY』、さらにそれに続くツアー。

これらの濃密な展開の後に、この「Good Life」というシングルが発表された時、清水翔太の終わらないクリエイションはまだ止まるところを知らないということを、イントロからして実感させてくれた。

これまでの曲でも自身の生い立ちについてほのめかしてはいたものの、ここまで真正面から曲にしたのは、清水翔太にして初めてのことだったのではないかと思う。

 

「学校」という制度について

半生を語るこの曲は、ティーンエイジを振り返るところから始まる。

そこにあるのはもちろん、日本のほとんどの人々がほぼ同じ経験を重ねてきている「学校」という制度の経験だ。

ダサい服 ダサい靴 ダサい財布
音楽以外何もない my life
皆にバカにされた中学から 18, 9
地元に仲間なんていない 制服着てカバンには私服
隣駅で着替えて swim good
「やっと俺が俺でいられる」
そう思う為に破ったルール

この音と歌詞を聞くと、どうしても思い出してしまう。

俺も、かつて学校に通っていた。

そして、おそらく多くの人たちと同じように、別に学校が大好きというわけでもなかった。

高校に通っていた当時のことを振り返って、22歳ぐらいのころに俺が自分で書いた文章がある。

それを読むたびに俺は、もはや過ぎ去って忘れてしまった何かを思い出す。

高校生でいた間、俺は身の回りのものすべてに苛立っていた。
蔑んで、嫌悪して、憎んでいたと言ってもいい。
同級生は面白くなく、かっこよくなく、賢くもなかった。
教師は何かを言いたそうにしていながら踏み込んでこない、まるで見えない力に行動を制限されているかのように動きづらそうな、悲しい生き物に見えた。
何もかも、誰もかもが保守的だった。

昨日そこにあった安定、今日ここにある秩序を壊さないために、無難を第一の優先事項にしているかのように、他人の顔色をうかがい、波風立てないよう息をひそめていた。
俺は、まるで自分だけに真実が見えているように感じていた。
どうして皆が大人しく昨日と同じ秩序に従うのか理解できなかった。
まるで巨大な陰謀に巻き込まれたかのように、自分だけが周囲とまったく違う原理で動いているように思えた。
しかもその陰謀の領域があまりにも広いものだから、どこまでか逃げて誰かに訴えたり、何かを変えようとしたところでまるで勝ち目がなさそうだというような、心細さと孤立無援の絶望感があった。

当時の自分にはわからなかったが、このような息苦しさと絶望感を俺が感じていた背景には、二つの原因があったと思う。

  1. 中央による一括管理型の、暗記式教育。
  2. 「役割」を持たない若者をとりあえず一つの建物の中に詰め込んで、大人しくさせておくという、学校の機能。(監獄機能)

 

1.中央による一括管理型の、暗記式教育。

最近は時代の変化の中で、学校の一括管理教育への批判は高まっている。

「時代の変化」というのは、イノベーションによる生産性の向上とかAIのシンギュラリティとかの影響で、ホワイトカラーも含めた労働集約型の仕事はこれから求められなくなるだろうという、だいたいそんな社会背景だ。

だからたとえば以下の記事のように、「教育は個々の特性と叶えたい人生のために直接役立つことを個別に主体的に学んだ方がいい」、という声は大きくなってきている。

もうすぐ、十把一絡げの教育を選ぶなんてダサくってやってらんないって時代が来る。
必ず来る。
今だってすでにそうだ。
そもそも人間、ひとりひとり得意なことも特性も違うのに、なぜ同じ空間にぎゅうぎゅうに押し込められて、制服なんてださいもん着せられて、おんなじ内容の授業を同時進行で受けないといけないのか。

小野美由紀「登校なんて時代遅れ #8月31日の夜に」 https://note.mu/onomiyuki/n/n3a451d7749c0

ちなみにこのリンクの記事は、「#8月31日の夜に」というハッシュタグをつけてメッセージを送りましょうという企画の中でつくられたものだ。

8月終盤から9月序盤にかけて、小中学生だかなんだかの自殺率が上がるというデータが今年の8月末に注目されていた。

それに向けてのメッセージである。

 

こういう論調が主流になることは、素敵なことだと俺は思う。

ただ、そういう時代が実際に実現されるのは、どんなに早くても10年後、普通に考えれば20年以上は後のことになると俺は思っている。

というのは、「個別の教育を受けさせる」というのは、もちろんそれなりのコストが必要だからだ。

生産年齢人口が減る日本のリソース現象傾向の中で、社会全体でそのコストを負担するというのはあまり現実的とは言えない。

とすれば、起こりうるシナリオは、以下の2つのうちのどちらかだろうなと思う。

A.上記のような個別的な教育を受けられる子は、それだけのコストを負担できる一部の家庭の子に限られる。 ほとんどの子は、従来型の中央管理的な学校に通う。

B.今の学校制度のような社会的に高コストのものではなく、「もっと分散的でシェア的な別の形=維持コストを抑えられる形」で子供が個別的な教育を得られるようなイノベーションが生まれる。

Bのようなイノベーションのためには、教育制度とは別に、もう一つ考えなければならないことがある。

 

2.とりあえず一つの建物の中に詰め込んで、大人しくさせておく(監獄機能)

公立学校の教師は、刑務所の看守とかなり似たポジションにある。
看守の主たる関心は、囚人を建物から出さないこと、食べ物を切らさないこと、そしてできるだけお互い殺しあわないようにすること。
それ以上は、囚人とはできるだけ関わり合いになりたくないと思っている。

(中略)

表向き、学校の目的は子どもの教育ってことになっている。
実際には、彼らの主な目的は、子どもたち全員をひとつの場所に閉じ込めて一日の大部分をそこで過ごさせ、大人たちが用事を済ませられるようにすることだ。
これについては、ぼくも文句はない。
専門的な産業社会では、子どもたちを勝手に走り回らせておくなんて、とんでもないことだから。

ポール・グレアム「どうしてオタクはモテないか」 https://gist.github.com/sifue/b6506ea6b3f3d3a46a0c3bb885cd5ddf

あまりそういう表現はされないが、子供というのは仕事の「邪魔」だ。

たとえば、上記Bのようなイノベーションが実現して、子供たちが個々の特性と目的に合った教育を選んで身に着けられる時代になったとする。

そういう社会では、一人ひとりが自分の特性と志向性に合わせた仕事で、自分の力を発揮するだろう。

そんなふうに、一人ひとりの大人が、「これが自分の使命だ、天職だ」と思うことをしながら生きていける社会って素晴らしい。

大人が自分で満足している仕事に取り組めるというのは、とても素敵なものだ。

でも子供というのは、そういう、大人が自分の能力を最大限発揮するのを、邪魔することがある。

そのときに僕、赤ちゃんに何て思ったかというと、「なんでこいつは俺の仕事の邪魔をするのか?」って、真面目に思ったんです。
もう冷静じゃないんですよね、すでにその状況が。
しかもその後は、これは自分でもビックリしたのですが。
赤ちゃんに大きな声で「うるさい!」って怒鳴ったんですよね。

「子育てに自信があった僕は、妻の一言で目がさめた」 https://conobie.jp/article/11659

このインタビューでは「冷静じゃないから、邪魔だと思った」と語られている。

「子供を邪魔だなんて思うなんてとんでもない」という意識が、背後にあるからだと思う。

だけど冷静に考えてみてもやっぱり、場面によっては、子供は明らかに邪魔なんだと俺は思う。(赤ちゃんに向かって「うるさい!」と怒鳴るのは冷静じゃないと思うけど)

「子どもがその場にいる状況」と「いない状況」を考えたら、普通に考えて、「子どもがその場にいない状況」の方が、仕事はしやすい。

だから子供と大人と、お互いにとっての不幸を生まないためには、大人が子供の存在から隔離されて、自分の仕事にじっくり集中できる環境は確保されるべきだ。

これについてはポール・グレアムも、上記引用の中で「専門的な産業社会では、子どもたちを勝手に走り回らせておくなんて、とんでもないことだ 」としている。

 

だから「教育」という観点とは別に、「居場所」という観点でも、学校制度(子育て制度)改革については語る必要がある。

そこでたとえどんな個別的で柔軟な教育がされていようと、「とりあえず詰め込まれて、事を荒立てないように大人しくさせられていること」自体が、ストレスなのだ。

「出勤」や「業務時間」という概念がなくなれば、「ワークライフバランス」という言葉もやがて古いものになるという論調が今や主流になり始めている。

それと同じように、登下校という概念がなくなって、「教育を身に着ける時間」と「それ以外の自由な時間」が明確に分けられることがない時代が、もしかしたら来るのかもしれない。

そんな時代では、今では考えられないぐらい若いころから、責任ある仕事を担ったりすることもあるかもしれない。
(それはそれで、生産労働人口の増加につながるからありがたいことだ)
(話はそれるが、「責任」という言葉も、学校にかかれば「積極的服従」の意味になるので、昔は本当に嫌いだった。「責任や自覚を持て」=「自分から規則に従うようになれ。先生に言われなくても先生の期待するように動け。」だと直感的に感じ取っていた)

 

さらに考えを進めていくと、「何かを自分から手掛けたり、学んだりする場」それ自体が「居場所」だとしたら、子供が自分で自分の居場所を選ぶようなるかもしれない。

そしたら「家族」とか「親子」とか「子供を育てる責任」って何だろうね、どこで線引きされるだろうね、というところまで考えは進む。

そもそも「子供」と「大人」という対概念自体がいらないのではないか、とも思える。

たとえば年齢とは関係なく、「状態」として以下のように定義してみる。

  • 「子供」=好き勝手に自分の興味や楽しみに向かって突っ走れる状態
  • 「大人」=「価値」や「生産」に集中して向き合っている状態

たとえばこんな風に定義分けしてみれば、年齢とはまったく関係なく、それぞれを隔離できる。

「ただ楽しくやりたい人(子供)の居場所はこっち」、「集中して仕事や勉強したい人(大人)の居場所はこっち」みたいに。

そうすれば、別に60歳の人でも気分によっては「子供」側にもいられるし、10歳の人でも必要に応じて「大人」側に入ることもできる。

話が脱線しすぎたので、ここらで話を戻すことにする。

 

 

そういう「学校」の場から清水翔太が離れて、15年近くが経った。

俺もほぼ同じ世代だ。(一学年違い)

この15年で、何か変わったのだろうか。

少しずつ、学校の外は変わり始めている。

中も、たぶん変わり始めている。

少しずつ。

↓こういうのとか


(先週の日経新聞にも出ていた麹町小学校)

 

クリエイター環境について

それで清水翔太は学校から飛び出して、音楽の道に進むことになる。

「一番得意なこと、やりたいこと」に全力で取り組める環境を手に入れたのだから、それですべてハッピーだったのかといえば、そうではなかった。

Home から away
小さな嘘も 積み重なり真実と化す
俺が俺自身を溶かす
ゆっくりブレ始めるフォーカス
それでも助ける 誰かが手を伸ばす
まだ死ねないとただ言い聞かす
We love you
声が聞こえる 聞こえる

このあたりのラインには、デビューからこれまでの格闘がギュッと込められているような気もするのだけど、これについては俺はあまり多くは語れない。

俺よりもっと熱く語れるファンがたくさんいるだろうと思うので、そちらにお任せする。

問題は、自分の一番得意なこと、やりたいことを選んだはずなのに、清水翔太が「これが自分の使命だ、天職だ」と思えるようになるまで、ずいぶんな紆余曲折を経たということだ。

デビューしてHOMEが売れて、それは嬉しかったけど、周りは大人ばかりでその中で段々とピュアな清水翔太の音楽が出せなくなって。
(中略)

でもそれがSNS始めて、なんか言うとみんなからバァーとリプが来て、翔太もっとこうやりなよ。とか翔太それいいよ。とか言ってもらえて、みんなのおかげでオレが張ってたバリヤが少しづつ無くなったの。で、今オレのやりたいように(音楽活動が)やれてる。

ん@翔太マニア「WHITEファイナル 大阪城ホール」 https://withshota.amebaownd.com/posts/4905085 (←すみません、勝手に借りました。問題あったら教えてください)

これも結局は、学校の時の問題と同じで、「環境の整備」という課題に尽きると俺は思う。

 

先日の清水翔太武道館ライブレポートの中で俺は「インタラクティブ」という言葉をキーワードとして挙げた。

これまでのポップミュージックシーンにおいて、アーティストとファンの間には、レコード会社とか芸能事務所とか、いくつもの緩衝があった。

もちろんそれには、アーティストが成長するのを助け、守る側面もあった。

それと同時に、やっぱり音楽は「商品」だから、アーティストとしての矜持よりもマーケティングを優先することも、当然のこととして起こっただろう。

仕事をする上で「自分(の意欲)」と「社会(の需要)」の折り合いや距離感を見定めるのは健全なことだから、別にそういった事象のすべてが悪いわけではない。

でもやっぱり今までの音楽業界で、アーティストとリスナーの間をつないでいた流通の仕組みは、あまりにも十把一絡げで、肥大化しすぎて硬直化していたんじゃなかろうか。

端的に言えば、「スマートじゃない」というか。

 

SNSの登場で、その環境が少しずつ変わってきている。

Twitter、YouTube、SoundCloud、Spotify、Instagram、TikTok、LINE、Showroom。

アーティスト(クリエイター)とリスナーをつなぐメディアはいろいろできた。

ただ、それだけではやっぱりまだ十分ではなくて、その雑多でカオスな状態から何かをコーディネートする存在はこれから必要になるし、生まれてくると思っている。

単にセンス良く情報をまとめただけのキュレーションではなくて、ヴィジョンを持ちながらまだ生まれていない作品やムーブメントをつくりだせるコーディネート。

しかも、誰かが一元的にコーディネートするのではなくて、誰もがクリエイターにもコーディネーターにもユーザーにもなれて、それらを調和させるプラットフォーム。

そういうことができたなら、清水翔太がこの10年間で味わって来た葛藤のいくつかは、後の世代には感じさせずに済むのかもしれない。

もちろん、別にそれは楽園をつくりだすわけじゃないから、それで「何もかもがハッピーなクリエイター活動が実現される」なんて言う気はないけれど。

 

そういうことを、仕事としてやってみたいと思っているので、もし誰か同じようなことを考えている人がいたら、声かけてください。(ホントに。私のアタマの中には「これやりたい」というのがある。)

あと、清水翔太さんも、もしこれを読んでいて、こういうこと(後続世代の制作/発表環境の整備)を手掛けたいと思っていたら、ぜひ俺にも声かけてください。一緒にやりましょう。(小声)

 

俺たちの世代が味わってきた理不尽や不自由や息苦しさを、後の世代の人たちには味わわせたくないと思っている。

それが、自分の仕事かなと思っている。

なので、どんな世代の人でも、「もう本当にこれを変えないとどうしようもないと思う。一緒にやりましょう」と思うことがある人がいれば、俺にも声かけて欲しいと思っています。

別にこの記事に関係あってもなくてもいいので、当人的に絶対に大事な問題だと感じているものがあるのであって、俺の琴線に触れるものであればぜひ話を聞いてみたいと思っています。

もちろん俺も仕事と家庭を大切にしているので時間や労力や資金の余裕があるわけではないし、実力もまだまだだから、今すぐ必ず何かを変えたり形にできたりするわけではないと思う。

それでも、みんなの力を少しずつ合わせていくのが、たぶんいろんな意味でGood Lifeのためにベストな方法なんだと思っている。

そんな気持ちで、「Good Life」聞いています。

(すみません、「Good Life」聞きながら書いていたら良い意味で頭ブッ飛びまして、話脱線しまくりました)

 

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