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脳科学における「頭のよさ」というのは、

①情報収集能力

②情報分析能力

③決断力

この三要素によって決まるのだと、何かで読んだ覚えがある。

納得できる話ではある。

つまりこれは「学習」のプロセスとも重なる。

たとえば外国を歩くような時のことを想像して欲しい。

我々は初めて目にするその景色や音などの環境に対して、①必死で情報を収集し、②その中にパターンや差異を見出すべく分析し、③「これだ」と思える結論を導き出して、それに基づいて行動する。

これを素早く適切にできることが「頭のよさ」である、というわけだ。

幼児の、世界に対する態度も、これと符合するだろう。

①情報を収集し、②分析し、③決断(行動)する。

 

そしてこの決断(行動)の結果、それによって巻き起こる世界との接触と応答関係が、次の「情報」になる。

③が①につながる。

フィードバックによって導かれる一つの円環であり、ビジネスでいうところのPDCAのようなものだ。

もしも前の決断(行動)が失敗であったなら、その結果をよく見つめて情報収集して分析する。

もしも成功であったなら、この結果もよく見つめて分析する。

それが、次の決断(行動)に活かされる。

 

そうして、俺みたいに30年(1万日以上)も生きてみると、蓄積されてきた情報はなかなか大したものになっている。

情報というのは、世界をスキャンした情報だけでなく、その過程(プロセス)や方法論の情報でもある。

それを活かすことによって、俺はそれなりに上手いこと生きられる。

昔よりもずっとスムーズに、いろんなことをできる。

参照すべきデータベースが大きく、しかも毎日の睡眠や短期記憶の処理などで着実に整理されてもいる。

そのおかげで、情報収集と分析と決断、これらすべてが的確で素早くなる。

 

 

さて、こういうことをしていると、「つまらんな」と俺は思うわけである。

あらかじめ情報と仮説や目的を持ってどこかへ赴くなど、猪口才なことはしたくない。

なるべく何も持たないまっさらな状態で、俺は世界と対したい。

この時に、世界の変転と流れは俺を包み、通り抜けて心地よく、体と調和しながら忘れられる。

れは山に倚り、水に臨み、清風を担にない、明月を戴いただき、了然たる一身、蕭然しょうぜんたる四境、自然の清福を占領して、いと心地ここちよげに見えたりき。

これは泉鏡花の小説「義血侠血」(1894)の中で、主人公の村越欣弥が二度目に登場するシーンにおいて、彼の様を描写したものだ。

この描写、そしてその青年の涼しさと泰然たる様子に、俺は魅了され、憧れた。

ただこれだけが、俺のしたいことだと思えた。

 

仕事をしていると、そうとばかりも言っていられない。

仕事をするということは、入力処理と演繹の演算、データベースへの接続などで自分に負荷をかけて、他人に向けてエネルギーを発し、圧をかけることだ。

こうして俺は人間世界をかたちづくるのに力を与え、それを維持する。

しかし人間世界?

それが何ほどのものか。

人とつながり、人に評価されるのは、時に手放しがたいほどの依存性がある。

しかしそれはやはり狭いのだと、ほんの一部でしかないのだと、どれだけ複雑になり深みや広さがひろがろうとも、俺の心はもっと広いものに惹かれているのだと、俺は自分に言い聞かせよう。

いつだって俺は無知で、何も持たず、何も知らないのだと。

言葉よりは、石ころのほうに寄り添っていたいと、俺は思うのだ。

人間としての運命が、村越欣弥にそれを許さなかったように、もはや俺にもそれを許さないとしても。

 

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