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今日も「あなたはあなたのあり方でいいんだ」ということを強く世の中に向けて伝えてくれている人がいる。

それはとても心強いことだ。

同じ人が同時に「漢字や学校の勉強は他人のために学ぶものだから、他人への思いやりを持てない人にはまるでその必要性が理解できない」とも言っていて、それがまた俺にはちょっと辛かった。

 

小学校4年生の頃、漢字ドリルの宿題をほとんどすべて無視してテストがほとんど0点だった時、「あなたはそうやって世の中をナメているといつか必ず苦労することになる」と赤ペンででっかく書かれていた。

それを書いた担任の先生はとてもちゃんとした人で、子供たちからも保護者からも人望があった人だった。

俺自身もその先生のことはちゃんとした先生だと思っていたから、たぶん先生の言っていることは正しいのかもしれないと思った。

でも、どうしたらいいかはわからなかった。

「ちゃんと漢字ドリルができる人になったほうがいいのだろう」ということはわかるのだけど、まるっきりやる気にならないし、実際出来ない。

そしてたしかに、先生の言った通り、俺は中学校でも高校でもその点で苦労することになる。

テスト勉強とか、そういうのが、できない。

あまりにも勉強ができないから、母親に怒られて「ヤベェ!」とか思ったりする。

でもそれは母親を怒らせたことがヤバいのであるし、テストで点を取れなければますます他人から責められるのがヤバいだけであって、本音ではテストなどどうでもいいのであった。

そして大学に至っては、学期が始まってもそもそもキャンパスにたどり着くことすらできず、あまりにも単位が取れなくて身動きできなかった。

今でも、単位が絶望的に足りない夢を見ることがある。

 

「苦労したいか」と問えば、苦労はしたくない。

努力が嫌いなのと同じぐらい、苦労も嫌いだ。

そんなわかりやすいところで苦労しない人間になれたら、そのほうがいい。

でも、それができない。

たぶん、俺は他人や世の中を、根本的にどうでもいいと思っているのかもしれない。

他人とのかかわりの中でどれだけ重要であろうが、自分にとってはどうでもいいものに出会った時、平気でそれを無視するのかもしれない。

 

俺の文章は、時に他人に褒められることもある。

俺が本当に他人への思いやりを持てない人間だとしたら、漢字を書けないのと同じぐらい、文章も作れないはずではなかろうか。

文章も結局は、他人が決めた単語と文法の組み合わせで、他人に伝わりやすいように書くことで上達するものだから。

 

そこで俺はハッと思い当たる。

俺は、書きたい時に書きたい事しか書けないのだ。

誰かに「こんなの書いてよ」と言われたりとか、「こうやって書くほうがアクセス数伸びるはず」みたいな努力とか、そういうことはできない。

「できない」というのは、やってみたけどできないとか、技術が身についていないとかではなく、「何もできない」のだ。

書き始めることすらできない。

だから他人に俺の文章を褒めてもらう時があったとしても、それは俺が書きたいことを書きたいように書いたに過ぎない。

「誰かのために」書くということは、俺にはできない。

 

こういう自分、ヤバくないだろうか。

これはつまり、他人から発注されたり依頼された仕事が、基本的にできないということなのだから。

思い当たる節がありすぎてヤバい。

 

でも、どこかに救いがあるとすれば、それでも誰かに文章を褒められたときはとても嬉しいということだ。

誰かに届いて欲しくて、認めてほしくて、役に立ちたくて、生きているし、書いている。

それは、たぶん間違いないと思う。

ただ、自分の思うようなやり方でないと我慢できないというだけで。

こんなんで、生きていけるんだろうか。

こんな俺のまま生きていくには、どんなやり方があるだろうか。

 

 

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