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「キミノセカイヘ」は祈りにも似た小曲

アルバム終盤の2曲は独白調の歌だ。

最後から2曲目、アルバム12曲目の「キミノセカイヘ」は、R&B的にクラシックなオルガンの音色に導かれて始まる。

清水翔太の歌声はエフェクトでくぐもったように響き、まるで心の叫びが漏れ聞こえてくるかのようだ。

この曲はアルバムでもっとも短い曲で、ヴァースが16小節×2ではなく、16小節×1に設定されている。

それにも関わらずコーラスとブリッジは通常の曲と同じだけ繰り返されるから、コーラスの存在感が必然的に大きくなる。

今度またどこかで会う時が来たら

君の痛みで僕を殴ってくれ

何度でも何度でも 泣いてもやめないで

君の世界へ連れ戻してくれ

「泣いてもやめないぐらいに僕を殴りまくってくれ」というのだから、悩みすぎていささか頭がおかしくなったかのように、いくらか狂った歌詞ではある。

しかし一方で曲のほうは、鼻歌のように軽くはずむメロディが、どこか光を感じさせるオルガンに導かれて進んでいく。

ここに、心の叫びが漏れ聞こえてくるような清水翔太の歌声と歌詞が乗ると、まるで日の当たる小さな教会の庭で祈っているような明るい神々しさを帯びて聞こえてくる。

そしてその明るさと爽やかさが表現しているものは、後悔の気持ちではなく、未来へと進む前向きな気持ちだ。

どんなに愛していても、今はもう会えないということは、とっくに決めて受け入れているのだ。

心と身体がどんなに別れの悲しさと苦しさを叫んでいても、愛する人がいなくなる未来へ向けて足を進めていくことはすでに全身全霊で納得している。

 

痛みの中にある希望の歌

エゴやカルマを捨てよ

「BYE×BYE」のエントリに書いたように、「愛しているのに」というよりも、むしろ「愛しているがゆえに」別れていく局面というものがある。

そんな時、別れていくのは自分のエゴや業(ごう、カルマ)に原因があるのはわかっているから、自分を責め苛む意識でつぶされそうになる。

なぜ「相手と共にいる未来」よりも「自分の都合」を優先してしまうことが愚かなのかといえば、それは結局、権力欲や所有欲に導かれているからだ。

「自分自身の主でありたい」という欲である。

自分の力を限界まで発揮して、しかもそこに自分の名前を記して、自分の思うとおりの自分自身と業績を手に入れたいという欲である。

しかしその欲望を実現するのは不可能なことだ。

嘘だと思うのならロジカルシンキングと瞑想を駆使して自分で考えてみるといい。

キルケゴールもブッダも「無理だ」と言っている。

自分自身を追求しようとすると、どこまでもどこまでも終わりがない、無限の空間に迷い込むことになる。

そして人間にとって「無限」とは、「無」や「真空」と同じ程度に、空虚で無意味なものだ。

「自分自身には常に絶望が仕込まれているから、そんなもん捨てて神の前に立て」というようなことを言ったのがキルケゴールだ。

「“我=アートマン”が“梵=ブラフマン”と一体であると知れ。(“我”を“業”(=輪廻による因果律)から切り離せ)」というようなことを言ったのがブッダだ。

 

今はまだ捨てられない

それがわかっているから、清水翔太は「俺を殴ってでも君の世界へ連れて行ってくれ」と言っている。

だけど同時に、「今はまだダメだ」とも言っている。

「今はまだ、僕はそこまで人間ができていないんだ」ということだろう。

そして清水翔太にとって、そこまでして「なりたい自分自身」、自分の力で「やりたいこと」といえば、音楽だろう。

この場面で、“愛”と“ポップス”の二択で、清水翔太はポップスを取ったのだ。

ポップミュージシャンとして、プロフェッショナルとしての自分自身をまだまだ高める道を取ったのだ。

愛してるのに 会えない二人だね

愛されること 僕はまだ恐れてるよ

君だけは 君だけは 変わらないままで

君の世界へ連れ戻してくれ

愛されることをなぜ恐れるかといえば、その愛に本当にこたえようと思ったら、自分自身を捨てなければならないからだ。

しかし恐れてはいても、今は無理だとしても、唯一の希望はそこにしかないということを清水翔太も感じている。

自分のつくったものよりも、自分を壊すものののほうにこそ、希望はあるだろうと感じている。

だからいつか、今は無理だけど、今とは変わった二人が未来のどこかの地点でもう一度出会い直せるのなら。

その時には、今とは違う自分が、今とは違う君と新しく出会うだろう。

二人がもしも一緒にいる未来があるのだとしたら、それだけがありうる道だ。

そしてその確率は、ほかの全ての誰かと出会うのと同じ確率。

それぐらい、過去を捨ててまっさらになって初めて、二人の違う未来というのは生まれるだろう。

(だから俺としては、「君だけは変わらないままで」ってのは、清水翔太にしてはめずらしく、少しわがままに過ぎるというか、願望を込めすぎかなって感じがするんだけどね)

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清水翔太は俺達のアイコン

清水翔太の選んだ道のすべてを、俺は正しいと思う。

同じ時代に同じ二十代を生きた者として、清水翔太を全面的に支持する。

結局、「自分を捨て去ればいいじゃん」と言ったところで、そう簡単に捨てられるものではないからだ。

「まだやり足りないことがある」という清水翔太の感覚に、俺は共感する。

自分を捨てる方法を探るにしても、自分を突き詰めてみないとその方法も見えてこない気がする。

ブッダの用語で言えば、「“我=アートマン”の中に“梵=ブラフマン”を探す」か、「“梵=ブラフマン”の中に“我=アートマン”を探す」か、どちらにしても“我=アートマン”についてよく知らなければならないからだ。

自分自身であろうとする力と、自分自身を壊し奪い去る力、この葛藤の中で悩み、考えてこそ、道が見えてくると思える。

そしてその葛藤をカッコよく、センスよく、しかも正直に表現してくれる清水翔太のような存在を、尊敬するし、ありがたいとも思う。

俺はこのアルバムがとても好きで、しかも自分自身と勝手に重なり合わせてとらえてしまっているものだから、こんな魂の全曲レビューを書いている。

でも一方で、清水翔太が別の道を見つけることがあったなら、その時はいつでもやめてもいいよ、とも俺は思ってる。

ポップスでない音楽と共に生きていく道だって、きっといくらもある。

でも今は最高のポップスを聞かせてくれる清水翔太には、本当に多謝だ。

 

※アルバム13曲目 「lovesong」ソウルレビューはこちらから

13.「lovesong」 – 『PROUD』 全曲ソウルレビュー –
清水翔太アルバム 『PROUD』 全曲ソウルレビュー。2016年の傑作アルバム『PROUD』は、あきらめと後悔と逡巡と内省が入り混じる美しい「lovesong」でひっそりと幕を閉じる。決断は下されていても、足が動かない、そんな瞬間をスケッチ

 

※清水翔太 アルバム『PROUD』全曲ソウルレビューはこちらから

清水翔太 アルバム『PROUD』(2016) – ソウルレビュー –
2016年の傑作アルバム、清水翔太『PROUD』全曲レビュー 清水翔太が26~27歳の時につくったこのアルバムは、2010年代を生きる20代の心と風景を描いた傑作だと俺は思います。清水翔太自身にとっても、ポップミュージシャンと

 

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