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昨日の記事で規律にカラダを合わせていくことの息苦しさと悲しみについた。

ただ、そういうことを強いられたからと言って、俺が前の会社を憎く思っているかといえば、全然そんなことはない。

むしろほとんど感謝しかない。

人を恨んだり会社を恨んだりするような話ではなく、単にそういう仕事に就いていただけのことだからだ。

 

その会社は20人やそこらのスタッフが作業をする現場を持っていて、作業の完成品に求められる品質は何よりも「予定通りであること」だった。

そこでは個性や人間的なものなどノイズだ。

俺はその20人ばかりのスタッフを監督する仕事もしていたから、俺も積極的に他人のカラダを監視した。

監視して、指導して、服従させた。

そのことを心苦しく思う気持ちも無いわけでもなかったが、この仕事を完成させるのにそれ以外の方法などないことを理解していた。

 

誰かのペースやルールに従うのは、しんどい。

しんどいけれど、悪いことばかりというわけでもない。

10人や20人のスタッフが役割分担をして力を合わせて、息を合わせて一つの単純作業をするのは、難しいし苦しいが、終わってみるとけっこう気分がよかったりもする。

俺は東京以外に暮らしたことが無いからあまりわからないけれど、田植えとか稲刈りとかいうのはそういう体験ではないだろうか。

そこに、歌とか祭りが生まれるのではないだろうか。

 

東京の単純作業系の仕事のキツさは、それに終わりも区切りもないことだ。

業務が細分化されて専門化された結果、明日もあさっても、来月も、ずっと同じ作業と仕事が延々とつづいていく。

それが、しんどい。

種まきも、実りも、収穫も、祈りも祭りも無い。

そういう、逃げ場のない未来を思うと無力感と絶望感がつのってきて、目の前から色彩が失われていくような気分になる。

単純作業だからこそ、仕事にもっと遊びとかアートっぽいこととか、取り入れられたらいいのになと、ずっと思っていた。

誰が一番早くできるか競争とか、作業する時の自分のこだわりポイント発表会とか、照合の読み合わせをはないちもんめみたいな歌にするとか。

そういう、みんなで一緒に仕事するからこそ生まれる楽しさを、意見出し合ってつくっていくとか。

結局そういうことは誰にも言えずに終わってしまったけれど。

 

今はそれとは全然違う仕事をしているのだけど、あの頃感じた絶望感を俺はまだ忘れていない。

その絶望には終わりがあるのだと、別の社会のあり方があるのだと、教えてくれたのが分散化であり、シェアリングであり、ブロックチェーンであり、IoTであり、AIのシンギュラリティ、食糧生産や医療の進歩であり、つまりそういう、イノベーションの各種であった。

きっかけはたぶんたくさんあったのだけど、今でも覚えているのは、新聞の5日間連載ぐらいのフィンテックに関する小さな囲み記事だ。

連載の中の1日分が、ブロックチェーンについてだった。

そこに俺は希望を見た。

その後に『限界費用ゼロ社会』を読んですべてが変わった。

それから、それ系の本を読みまくった。

人間が自分のカラダとココロを殺して歯車にならなくてもいい日がきっと来る。

少なくとも世の中はよくなっているのだと思える事が、何よりも嬉しかった。

まさかそれから2年ぐらいで、こんなにも新聞や雑誌やタイムラインが、そういうイノベーションへの期待であふれかえるとは思っていなかったけれど。

俺の感覚では、この2年で日本の世の中はとても明るくなった。

 

 

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