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学生時代の先輩が音楽ユニットを組んで曲を出したという。

嬉しいものだ、こうした頼りが届くというのは。

自分からは誰にも話しかけないくせに、話しかけられると嬉しい、そんな俺。

このLeon Topの『Puzzle Pieces』というEPを聞いていて少し懐かしい気持ちになるのは、先輩を思い出していたからというだけでもないだろう。

この音づくり。

「ハウス」と呼ばれていた何かの音を思い出す。

俺も、先輩も、同じ時代に同じ音楽を聞いて育ってきたから、感性は似ている部分はあるんだと思う。

そして今回、このアルバムを聞きながら、たぶんこういう音の復権は近いだろうと感じている。

 

これは、音に対する感性だけの話ではない。

その時代に生きる人が、生活をどう捉えるかという話でもある。

俺と先輩が音楽を浴びるようにして育った「90年代」というあの時代。

あの時代に鳴っていた音と、今の2018年に鳴っている音で、いったい何が変わっただろうか。

先輩のつくった『Puzzle Pieces』というEPを聞きながら、それは「美」だろうと、俺は考えていた。

 

かつて数学と建築と音楽が、知識人としての基礎教養だと考えられてたように、音楽というのは基本的に構造と論理の世界でもある。

そして、シンセサイザーをはじめとするデジタルミュージックは、基本的にはプログラミングの世界だ。

小室哲哉がTM Networkで活動していた頃には、一つの音色を決めるのに丸一日コードを打ちこみ続け、そんな作業を積み重ねながら曲を作っていたという話もある。

「儚くてとりとめもないこの生活に、構造化された美を取り入れること。」

80年代後半から90年代にかけての生活には、そういう態度があったように感じる。

2018年の、功利主義的で目の前の食い扶持でアタマがいっぱいな態度とは違って。

 

 

25年前、「日常生活」という言葉にまだ宮台真治が驚いていた。

2018年の今、もはや日常生活はあまりにも普遍的に日常的過ぎて、話題にのぼることすらなくなった。

生活に「美」を持ちこんでせめて違いを出そうという試みは、もはやあまり取りざたされることはない。

それはしょうがない。

年上の一般消費者が誰かの猿真似でそんなことをして、ダサくてイタい状態になっているのを俺たちはたくさん見てきたから。

俺たちの普段の生活は物語でもないし、俺たちは何の主役でもない。

それを勘違いすると、自分だけの物語に没入したイタい人になる。

(党総裁選の出馬表明を鹿児島でおこない「薩長同盟ふたたび」とか勘弁してほしい。勝手に主人公ぶるな、と。)

しかし、と俺は思う。

一方で、YOSHIKIや河村隆一がやろうとしたような耽美とは、全然別の仕方もあった。

(もちろんYOSHIKIや河村隆一は最高にカッコいい。しかしディーン・フジオカは…。)

 

上で貼ったInner Cityの「Good Life」にある、あのカラッとした明るさ。

自己陶酔的な耽美に耽溺するのとはまったく違う健康さがそこにはある。

たぶん、これからの時代に求められるのはあれだろう。

「美」と同時に「楽(fun)」を生活に取り入れること。

陰気で不景気なこの時代には、皆が飽きて嫌気がさし始めている。

貧しかろうがリッチだろうが、実は「楽(fun)」の作法にはそれほど違いがあるわけではない。

心をひらいて、誰かと笑うことだ。

俺の友人の”Iggy”イゲタくんが書いたハウスに関する記事も、ぜひ参考にしてほしい。

 

なんだか「生活」というやつにすっかり疲れてしまった俺は、Leon Topの音に忘れていた何かを思い出したのであった。

これは今の時代に必要な音ですよ。

あとは「楽(fun)」に満ちたEPを一つ作ったら、時代を打ち抜くんじゃないかと思うんですが、どうですか先輩。

「wagamama」のアーバンソウルな感じとか、いいですねえ。

聞きこんだらもっと書くかも。

 

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