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「milk tea」は恋の音

アルバム8曲目の「milk tea」は、クラシカルなソウルバラード。

音で言うと、前アルバム『PROUD』の「花束のかわりにメロディーを」に近いと感じる。

誰かに心惹かれていく、その甘さと、高揚感と、そして、怖さ。

そこにはふくれあがった期待と共に、何かを一歩間違えてしまったら二度と取り返しがつかないほどに壊れてしまうのではないかという不安がある。

期待と不安の両方が、入り混じり、共存している。

それが、恋だ。

そういう音。

 

そこで歌われるのは、誰かと溶けて一つになれるような、深い一体感。

一体感そのものがテーマであり、そして一体感への誘いの歌でもある。

しかし同時に、そこには一体感とは別の、分離の要素も歌詞には含まれている。

まさにそれこそが、期待と不安そのものだ。

二人は別々の人間であり、だからこそぶつかることも、くっつくこともできる。

まずは、そこにある「鏡」の要素について、少し語ろう。

 

「milk tea」の歌詞に登場するいくつもの鏡

「ナルシシズム」は「自己愛」と訳されることが多いが、しかし正確には「自己像愛」である。

ナルキッソスが水面に映った自分の姿に陶酔したように、そこには必ず鏡がある。

そしてその鏡の存在が、「ナルシシズム」と「自己愛」の違いだ。

「ナルシシズム」と「自己愛」の違いについて為末大の語ったツイッターのまとめがあるけれども、まぁおおむねこんな感じだと思う。

いくつか引用しておく。

「ナルシシストは、人目を気にしている。外から見て自分がどう見えているか、自分は人と比べてどう優れているか。そういう視点で自分を見ている。ナルシシストが自分を素晴らしいと思うのはあくまで人より優れているからで、前提に他人との比較がある。」

「自己愛を持って自分を肯定する時に条件は無くて、条件があるから肯定する自己愛は本質的じゃない。何々を持っているから僕は素晴らしい、何々ができるから僕は愛される。裏を返せば何々が無いと自分を愛せない訳で、自分が置かれている状況が変わるとこういう自己愛は途端に消える。」

鏡①

だからもっと愛すよ

だからもっと愛して

誰かが僕らを素敵だと思うように

「誰かが僕らを素敵だと思うように」愛し合おうというのは、少し自信に欠けている。

この場合、社会を鏡として利用し、社会の中での位置づけとして自分が素敵な存在であるということを確認できて初めて、自分を肯定できる。

場合によっては、お互いの愛は、自分の自尊心を満たすためのツールに過ぎないことになってしまうかもしれない。

もしも社会的な位置づけとして、「愛」というものが素敵なものだと認められなくなったら、たとえば「愛し合うのってダサいよね」みたいなコンセンサスが一般的になったら、彼らは愛し合うことをやめてしまうのだろうか。

鏡②

君が好きな僕で在りたいから

僕が好きな君で在り続けて

自分を肯定するのに、今度は相手の好意を必要としている。

この場合、相手を鏡として利用し、相手の目に映る自分が素敵であることによって、自分を肯定できる。

相手にも、自分を映して評価するだけの価値のある存在でいてもらわなくてはいけないため、それだけ素敵な君であることを要求する。

相手が自分を映すに値しないほど素敵でなくなったとしたら、あるいは、相手の目に映る自分が素敵でなくなったとしたら、彼らは見つめ合うことをやめてしまうのだろうか。

鏡③

僕らの住む世界に

悲しみが混ざらないように

明るい方に向かって going 手を離さないで

悲しみの混ざらない、明るい世界で生きようと呼びかける。

この場合、悲しみと比較し、照らすことによって、「明るさ」を肯定する。

しかし悲しみが自分たちの生活に交じり、映すべき鏡を失った時、彼らはどのように自分たちの生活を肯定するのだろうか。

たとえば尾崎豊が「悲しい歌に愛がしらけてしまわぬように」と歌う時、そこにはすでに破滅の予兆がある。

悲しみとの間に壁を立てる時、むしろそこに危うさが生まれる。

 

 我ら愚かな、ありがたき生命の営み

何かに自分を映すという行為は、「分離」の行為だ。

自分の像を、自分自身から分離する。

相手を鏡として利用するときには、相手を自分から分離する。

「milk tea」の歌詞は一体化を呼びかけながら、同時に、相手との、あるいは社会との間に鏡という拒絶の壁を築いてしまう危うさも持っている。

理解り合っていたいよ

だからもっと愛そう

「理解する」というのも、相手を対象化し、定義付けることによって成立する、「分離」の行為だ。

リスペクトを込めて理解に努めることは、相手を自分とは別の個体として尊重することだ。

(余談だが、「理解する」というのは不思議な動詞で、「理解しようとする」ことには相手へのリスペクトが込められているのに、「理解している」と思いこむことには相手へのリスペクトが欠けているという、そんな両面性を持っている。)

「分離」の行為は、ミルクティーのように混じり合う(「融合」する)こととは、逆の動きである。

「milk tea」の歌詞には、「分離」と「融合」の要素が、平気でいくつも入れ替わりに立ち現れる。

ある特定の二人の恋人関係の中で、この「分離」と「融合」という、まったく逆方向の矛盾するダイナミクスが、心の働きとして同時に働きうるというのは、いかなる事態なのだろうか。

 

俺が思うに、それは「生殖」と「誕生(育成)」という二つの異なる行為に向けておりなされる、心のダイナミクスだ。

「社会的に素敵でありたい」や、「君が好きな僕で在りたいから 僕が好きな君で在り続けて」は、セックスアピールだ。

それはたとえば、生殖相手としての自分の価値の高さ、オス同士(メス同士)の比較の中での相対的地位の高さ、誰かから選ばれる必要性とか、誰かを選ぶ必要性とか、そういうことだ。

一方で、「悪い癖、弱さやルーズさを抱きしめる」ことや、「ミルクティーみたいに寄り添って溶け合うこと」は、他との比較など無関係に、相手と自分の持つものすべてをただそのままに混ぜ合わせ、溶け合わせる何かを意味している。

それは、遺伝子とミームが融合される「子供」という表現物への期待をはらんでいる。

 

つまりこういうことだ。

相手を選び、相手に選ばれるためには、自分と相手の素敵さを確かめなければならない。

しかし相手を決めた後に、それらを溶け合わせ、壁も何もない一つに融合するためには、いったんすべてを捨てて、本当の「素」である必要がある。

なぜなら、結局、今ここにいる自分は、そしてそこにいるあなたは、周囲と比較して素敵であろうとなかろうと、とにかく今はそういう人間なのだということは否定できない事実で、今この時点において何かを変えたり隠したりすることはもはやできないのだから。

泣こうが喚こうが、今ここにいる自分で減数分裂するしかないのだ。

宝物だよ

だからこそ怖いよ

いつか飲み干して空っぽになった

君を全部僕に 注いでほしいんだ

そのあと 一番君の好きな場所で

キスをしよう

それは生命の営みそのものであり、生きていること、世界と戯れることそのものだ。

そしてそれを最後までし終えた後には、我々一人ひとりという個体は、静かにその働きをやめていく。

「milk tea」が描いているのは、その少し手前の、まだほんの少しだけ若くて、その分甘い、そんな時間だ。

そこには不安もたくさんある。

どうすれば上手く最後までたどり着けるのか、本当に上手くいくのか、本当に今の自分でいいのか、そして、本当にこの相手でいいのか、誰にもわからないのだから。

セックスアピールと、思いやりと、裸の自分と、周囲の協力と。

そういった、あらゆるものを総動員して、突き放したり、抱きしめたりしながら、ちょうどいい何かを探す。

そんなふうに、ぶつかり合いながら、手さぐりで、精いっぱいやっていくのだ。

 

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