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(ル=グウィンがこの世界にもういないことを今でも心細く思うし、一度はこの世界に彼女がいて作品を残したことを誇りにも思う。「あなたがここにいてほしい」と思うと同時に、アーシュラ・クローバー・ル=グウィンという名前をつづることに光栄を感じる。)

 

この道ふらふら

娘(1歳3ヶ月)と散歩をするのが俺は好きだ。

別に目的地とかはあんまりなくて、ただ道を歩く。

俺の感覚としては「歩かせておく」という感じである。

娘が歩きたいほうに、適当にチョコチョコ付いていく。

 

実際には、目的地はだいたい、ある。

近隣の図書館や公園だったりする。

それで、俺はその目的地の方向に先に立って歩いて、娘が付いてくるのを待ってふり返ったりもする。

ところが、娘としてはいつの間にか反対方向(つまり、今来た方向)に戻っていたりする。

そういうのを、もう一回こちらに向き直らせたり、直らせなかったり、とにかく安全第一で娘を見守りながら一緒に歩くのが好きだ。

 

十字路なんかに差し掛かると、娘の進む方向は本当に気ままである。

十字路なんて娘にとってはちょっとした広場だから、あちこちに立ち寄る。

こちらの角でクルマのタイヤを眺めた後、あちらの角の柵につかまって揺さぶり、またこちらの角に戻ってきて花をつついていたりする。

そして気が向くとどちらかの方向に進んだりするが、しかしいくらも進まないうちに戻ってきたりする。

 

そういうのを見ていると、「こういう風に生きたいなぁ」と俺は思う。

別にどの方向に進むでもなく、その一瞬の気分でやりたいことをやる。

結果として、進捗という意味ではすさまじく無駄に満ちていて、まるでどちらの方角にも進んでいないかもしれない。

でもそんなこととは関係なく、ただ気が向いたことだけをする。

効果や効率性なんて、そんな概念はまるで存在しなかったかのように。

 

失われる楽園と、得る楽園

しかしこれは「大人になること」への拒絶であると思う。

娘が他の何も気にすることなく、ただ自分の気分だけに従って行動できるのは、大人であるところの俺が、クルマや人と娘が衝突することがないように絶えず気を配って見張っているからだ。

「保護者」としての俺が危険を排除しているから、娘は自分の気分だけに集中できる。

そうでなければ、娘は遠からず、自らの身をきっと滅ぼすだろう。

つまり「ただ自分の気分や欲求だけに準じて生きていたい」というのは、それ以外の「生活」にまつわるあらゆる雑事や安全管理を、「保護者」に委ねたいという願望であると言える。

これは単に幼い願望ではあるけれど、同時に素朴な(単純な、根源的な、ファンダンメンタルな)願望でもある。

 

アーシュラ・ル=グウィンに「失われた楽園(Paradise Lost)」(『世界の誕生日』所収)という中篇作品がある。

そこでは人間は、完全な保護下に置かれている。

この「完全な保護下」という言葉をどのように受け取るかは人それぞれだが、オーウェル的なディストピアを想像する必要はない。

それがどのようなパラダイスであり、そしてそれがどのように「パラダイス・ロスト」であるかは作品を読んでもらうとして。

俺が「気ままに生きたいなぁ」と言うときに想像しているのはそのような社会なのではないかと思う。

「そのような社会に生きたい」という意味ではなく、人間が「気ままに生きたい」と願った時につくりだす社会はあのようなものなのではないか、という意味において。

そして今の社会は、その方向に進んでいると思う。

「気ままに生きたい」と願い、気ままに生きられないことにいくらかの悲しみを感じている俺がここにいる時、同じように感じている人間は俺一人ではないはずだ。

そして、同じように感じている一人ひとりの人間が、それぞれに何がしかの行動をしているはずだ。

社会はそのように動いていると、俺は思っている。

 

しかし同時に、気ままに生きるのでない楽しみも、人生にはあると俺は思っている。

幼児の、保護された気ままさは、確かに一つの楽園には違いない。

それとは別に、世界と相対し、関係し、切磋し、琢磨することによる喜びや楽しみもある。

たとえば、まるで熟達した庭師が得るような楽しみが。

そのあたりもまた、この「失われた楽園」には書いてある。

人生の深みを、しっかりと反映した社会体制をつくれるといいなと、俺は思う。

 

 

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