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PCがフリーズしかけていたのと時を同じくして、心もフリーズしかけていた。

「マズいな」と思っていたのだけど、フリーズしていく自分を監察している自分自身がフリーズしていくのだから、心の問題は厄介だ。

「マズいな」という実感があっても、そのマズさを解決するための行動に結び付けるのは、容易ではない。

それでもなんとか友人の手を借りつつ、心のフリーズの要因の一つとなっていると思われるPCのフリーズを解決すべく、行動した。

4GBのメモリではまるで動かなくなっていたPCの裏蓋を開けて、新宿の中古パーツ屋で購入した8GBのメモリを刺し直したのであった。

効果はてきめんで、PCはサクサクと動いております。

レスポンシブというか、まともにインタラクティブである機械がどれだけありがたいことか。

 

ブログの記事もずいぶん止まってしまった。

PCそのものが俺の心をズンと重くしていたので、困りものであった。

何も書かないし、何も読まないし、何も見ない。

ただただフリーズしていく自分を、ただなんとなく眺めていた。

 

PCを直すことと同時並行で、まともに読み始めることも再開している。

朝の電車で日経新聞を読んだりとか。

そして今日、テレビでミルウォーキーの夜景を見ていた時、何かが自分に戻って来たのを感じたのであった。

ジャスティン・ターナーがインタビューに答える英語を聞いた後、ミラー・パークの空撮映像の夜景を見ている時、何かを思い出した。

そこには、詩があった。

物語的でありつつ、同時に文脈などとは独立して確立された、何らかの美がそこにあった。

俺が価値を見出すのは、たぶんただそれだけだ。

金も、時間も、仕事も、ただ詩的である時だけに価値を持つ。

 

 

俺はこれから、何らかの仕事をするだろうし、それが上手くいけば何らかの事業の結果として残るものもあるだろう。

別にそれ自体の価値には、俺はたいして惹かれない。

クレア・ブース・ルースが政治をそれなりに上手くやりつつ、結局、自分の価値は脚本家としての仕事の中にしかないと感じていたように。

先日のテレビ東京で放送されていた池上彰の「ソ連の現代史」の番組の最後に出てきたソ連軍の将校が、最後まで自分の本業は音楽家だとみなしていたように。

 

モウリーニョがメディアの記者にブチ切れつつ、「ものごころついたときから自分の天職だと感じていた仕事をしている私は、君たちに何を言われようと一つも痛くはない」と跳ね返していた。

幼い日の自分が描いた自分の生活のイメージがあって、今もその理想が変わっていないなら、それをやれていないというのは心苦しいことだ。

やれていないだけならまだしも、それからすっかり離れてしまって、いつの間にか手放しかけていたから、俺の心はどんどん固くなっていった。

 

心のメモリは簡単には増強できないから、やたらと機能を同時起動しすぎないことが大事だ。

一方で、心や体や知性という生体は動的なハードだから、訓練や経験を重ねることで特定の方向に拡張することは可能だ。

だから結局、やることと、やらないことと、整理しないといけないですよ。

って、それいつも言われていることで、自分できていないことですけど。

 

詩を、心に、取り戻す。

そして、詩と共に生きる。

それを、しよう。

 

 

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