広告

 

コミュニタリアンとリバタリアンの思想的対立には、俺は昔から違和感を感じている。

「どちらも真なり」と思えるからだ。

弁証法的対立って、別に「どちらかが間違っている」というものではないから、そもそもそういうものなのかもしれないけれど。

 

結局、共同体が機能するためには個人の自由は保障されなければいけないし、個人の自由を最大に発揮するとだいたい共同体に貢献するように人間は出来ている。

それはそういうことなのかもしれないけれど、「じゃあ公共政策はどうあるべきなのさ」っていうのが現実的問題だ。

ざっくり言って「インフラに投資する」というのがだいたい是なのだろうけれど、今の時代に「ダムや道路に新規投資します」と言っても、本当にその投資で効果生むのかしら?という気持ちになる。

 

「じゃあどうすんのさ、社会に何が必要なのさ」って考えた時に、こんなんあったらいいんじゃないかと思えるもの。

モノはある程度足りてるから、新しくどんなにカッコいいセンスの建物が立てられるって言ったって、100点満点で喜べる気持ちにはなれない。

「じゃあ何が欲しいのさ」って言った時に、「安全にチャレンジできる環境」って、なんとなくそれを俺は思った。

その環境が、今欲しいインフラかなって。

あとから考えるひとたち」をつくろうって思った気持ちの背景には、そんな感情があったりもします。

 

いろいろあるんですが、脳内がもはやストリーミング的なスピードで流れ去っていくために、今思いついたことを書きました。

置き去りにされそうなストリーミングの中で、ひとまず目の前で書けることから書いていくしかない。

私を満たしていた詩は、どこに行ったのだろう。

 

If the seasons which change were all still
It’s so easy to see life would fail
Whatever slips out of our hands
Will find it’s way back to us once again

 

広告