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無心で食器など洗っている時、ふと、懐かしい友のことを思い出すことがある。

俺がこうして生活を営んでいるという事は、彼もこうしてどこかで生活を営んでいるわけだ。

まったく、どんな顔をしているのだろうか。

今の俺は、今の彼は。

それなりの苦労とそれなりの楽しみがありつつ、それぞれの野望を抱いて同じ今夜を生きているのだろうか。

俺の最近知り合ったすべての大人達にも、かつて幼かった時期があっただろうか。

それぞれに、会わなくなった幼馴染を持っているのだろうか。

まったく、どれだけ広いんだ、東京というやつは。

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25歳で逝ってしまった私

蓋然性① この世間で生きていけるのか

俺はこの世の中で「生きていく」ことに関しては、昔も今でもほとんど不安を抱いていない。

誰からも相手にされなくなるのでは?とか、まるっきり食えなくなるのでは?とかいう心配をしないということだ。

これには漠然とした根拠がある。

世の中をなんとなく眺め回してみた時に、「ま、この人たちでやっていけるなら、俺でも大丈夫だろ」と思えるからだ。

誤解のないように言っておくと、「俺にとって人生などイージーモードに過ぎない」などと、自分の能力を高く評価しているという話ではない。

ただ、みんなにできていることなら、俺にもできるだろうと考えているだけだ。

論理的にも、直感的にも、そう考えるほうが妥当性が高い。

自分が少数派に属すると考える理由が特にないからだ。

だから逆に、限られた人にしかできないようなことなら、俺にはできないかもしれないと考える。

 

蓋然性② 自分の寿命はどのぐらいあるか

かつて、俺は「キャリア」という言葉が嫌いだった。

今でも好んで使いはしない。

かつての俺が「キャリア」という言葉で想定していたのは、未来への「ルート」を選ぶようなイメージだった。

「弁護士」というキャリアに入りたいなら、「法学部」のルートを選びましょう。

「企業家」というキャリアに入りたいなら、「コンサルタント」のルートを選びましょう。

このようなイメージで人生を眺めるとき、俺には何もかもが色あせて見えた。

始める前から、退屈してしまっているような気分になった。

ましてや、18歳のときに病気をしてからずっと、自分は25歳で死ぬのだと思っていた俺にとっては、なおさら縁のない人生観だった。

60歳のリタイアだとか、老後までの計画を語ろうとするようなやつを見ると、こいつはアホなのではないかと思った。

翌年の事を言うと鬼が笑うと言うが、こいつはいったい何に根拠を置いて、そんな計画を描いているというのだろうか。

そこには俺の、「ひがみ」みたいなものもあったのかもしれない。

自分は明日にも死ぬのだと思い込んで、「今」のために「今」を生きるしかなかった俺には、あと数十年の余裕をもって人生を眺められる同世代の人間への、強い羨望と嫉妬のようなものがあった。

今になってようやく、俺は当時の自分と、そういう他人についても理解できる。

あの頃の俺は、寿命に関してはなぜか自分が少数派のほうに属すると信じて、自分の寿命を極端に低いほうに見積もっていた。

一方、老後のことまで語れていたようなやつは、平均余命などから逆算して、自分をまぁそれなりに普通に生きるものとして想定していただけだ。

 

気まぐれで無責任で受動的だった私へ

さて、若かりし日の俺は、以上二つの人生観、すなわち

①生きるのは何とかなる

②早くして死ぬ

を持っていたために、生き方はいくらか破滅的なものになった。

その破滅性が良い方に出れば、俺は必死で動き回って様々な体験をしていただろう。

ところが俺の場合は悪いほうに出たために、半ば自棄とも言える日々を過ごしていた。

明日をうっちゃるかのような酒。

今を潰しにかかるかのようなパチンコ。

真空の静止状態をつくりだす引きこもり。

この記事は、そんな俺への弔いと、別れを惜しむための記事だ。

 

運命と情熱

能力と情熱

能力に関する自己評価について言っておくと、俺は自分が「ちょっと優秀」ぐらいの領域に属していると考えている。

「能力」というのは、「適応能力」のことだ。

それ以外にどんな能力があるだろう。

そしてもう一つ、この世の中には、俺よりはるかに怠惰な人間がたくさん生きていることも知っている。

そういうことを考え合わせると、少なく見積もってもだいたい世の中の半分ぐらいの人は、俺より適応性もバイタリティもないだろうと思っている。

じゃあそれだけ、半分の人よりも生きやすいのかというと、そうでもないから人生というやつは難しい。

「情熱」というやつが、またクセモノなのだ。

情熱というやつが、人生を複雑にする。

大人しく生きていればいいものを、余計なものに手を出したがために状況を難しくするのは、もとをたどれば情熱のためでもある。

情熱があるから、人はいろんなことができる。

ではいろんなことをしたほうがいいのかというと、それが簡単には言えない。

怠惰さがいいものだとはまったく思わないが、「やらない」賢さはあると思う。

 

キャリアは選ぶのではなく「つくる」もの

最近になって、ようやく俺もキャリア的思考で人生を眺めることがある。

何かをしようと思えば、何事も一朝一夕では成らないから、一歩ずつ積み重ねるような進みが求められる。

1年でできそうなこともあれば、10年単位で覚悟を決めなければならないこともある。

こういう風にいろいろと手を出したくなってしまうのが、「情熱」のしわざだ。

そんなものがなければただ「生きる」だけでご機嫌でいられるのだが、情熱があるために忙しくなる。

このブログを書いているのだって、自分がいつ死ぬかわからんという感覚が根っこにはあるのだが、「いつ死ぬかわからん」が「ブログを書く」に結びつくところが「業=カルマ」だ。

 

自分の子供が生まれるということは、自分が死すべき存在だということを突きつけられて、強く意識するということだ。

先は決して長くない。

それは確かな運命だ。

その運命の中で、情熱に導かれて何かをしようとしている。

それなりに何かをしようとすると、数年から数十年単位で考えなければならないことも出てくる。

来年のことをいうと鬼が笑うのに?

途中で倒れたのなら、それはそれだ。

歩ききれるか否かにかかわらず、一歩を踏み出す。

歩ききれるつもりで、歩く。

倒れないようにはするが、絶対に倒れないなどとは、誰にも言えまい。

 

私へ -This Is the Way It Is-

あの頃は、楽しかったなぁ。

でたらめで逃げ腰で怠惰で穿っていて。

リスクも結果も社会性も眼中になかった。

そんな無知で不器用なりに、真剣で懸命で鋭かった。

もうそれは、俺の役目ではないようだ。

戻りたいとは思わない。

少しだけ、寂しいだけだ。

いつか、この世にも別れを告げること。

それも含めて、少し寂しいだけだ。

その前に、できることをやる。

いつの間にか、大人になった。

 

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