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※「トラックス&ストーリーズ」は、曲を聞いて書いた小説のシリーズです。

 

「ちょっと音下げるよ」

そう言うと智絵は後ろの席から乗り出し、拓海の返事を待つまでもなく、カースステレオのボリュームツマミを回した。

もはや音楽はほとんど聞こえないまでに、ラジオのボリュームが落ちた。

拓海は心の中で舌打ちをする。

後部座席でようやく眠りについた娘のことを気にしているのだとは、わかっている。

それでも、「俺の返事ぐらい待てよ」。

そう言いたい、言うべきだと思いつつ、拓海は何も言わなかった。

その後に続く討論を予想して、すでに疲れたのだ。

自分の役目は、ただただクルマを運転し、家族を無事に家まで運ぶこと。

もはや夫でも、父ですらなく、一つの「機能」だ。

 

「16号、か…」

街の景色に何かを思い出した拓海は、智絵に声をかけた。

「ちょっと次で降りるぞ」

「え、何が?」。智絵がけげんそうな声を出す。

「次のインターで降りる。」

拓海はそれ以上、説明しようとは思わなかった。

智絵もさっきは、拓海の返事を待たずに行動したのだ。

これで「おあいこ」だろう。

拓海は久しぶりに、気分が浮き立ってくるのを感じていた。

 

「うわ、久しぶりだね」。

智絵の声に、張りが少しもどっている。「関内だ…」。

「おう」。

根岸線の線路の下をくぐると、にぎやかな街の大通りを、さらに海に向かって進んだ。

無数のビルと店舗の明かりが、二人が乗るクルマを包んでいる。

二人?

違う。

今は娘がいるのだ。

拓海は、一瞬、本気で娘のことを忘れていた自分に苦笑した。

何かを思い出しているということだろう。

 

智絵と出会ったころ、拓海は関内ホールの裏手にあるラーメン屋でバイトをしながら、自分はこのままラーメン屋になるのではないかと漠然と考えていた。

夜の客入りに向けて仕込みを終える時刻になると、拓海はカウンターの向こうの小さな窓から外をのぞく。

そこには隣の焼肉屋でバイトしていた智絵が、ハッピーアワーの客引きに外に出てくるのが見えた。

あのころの二人はよく一緒に帰りながら、別れる時間を少しでも延ばそうと、海に向かって長い散歩をした。

無数の明かりが散りばめられた港町は恋人達を包み、中空を歩くかのような気持ちにさせた。

二人の帰りはしばしば真夜中を超え、智絵の両親に何度も大きな心配をかけた。

 

大学生だった智絵が、当たり前のように通信会社に就職したとき、拓海は自分の立場や行く末が本当にわからなくなった。

尊敬していた店長から「お前、そろそろ将来のことを真剣に考えないのか?」と聞かれたのも、そのころだ。

店長のその態度から、自分がラーメン屋になるのはあまり現実的な話でないらしいと悟った。

あのころ拓海はよく、一人暮らしの部屋のじゅうたんの上にすることもなく寝そべっていた。

そうしていると、光一つ無い暗闇の虚空の中に、その部屋だけがポツンと取り残されて浮いているかのように感じられた。

まったく何者でもない自分が、そこにいた。

やがて4ヶ月の就職活動の末にようやく拾ってもらい、何となく働き始めたのが今の電気部品商社だ。

その仕事は拓海に何の手ごたえも喜びも与えてはくれなかったが、ひとまず世間的には「一人前」になっていることだけが拓海の心にいささかの満足感を与えていた。

拓海が初めて自分の仕事を誇りに思ったのは、就職してから数年後、智絵が彼女の仕事のストレスに耐え切れなくなった時だ。

智絵を経済的に支えられる強さがその時の自分に備わっていたのは、仕事のおかげ以外の何物でもなかったから。

 

「大さん橋、行く?」

関内ホールを通り過ぎたころ、智絵が聞いてきた。

智絵も思い出しているのだ。

「行こう」。

大さん橋の景色を見たら、そのまま133号を走り、みなとみらいを回ろう。

今度は二人でなく、三人で。

智絵と家族になりたいと思ったときのことを、拓海は少し思い出した。

黙ってクルマを運転しながら、智絵も今、きっと同じ気持ちなのだろうと感じられた。

拓海の未来は、智絵のいるところにある。

そう信じる気持ちさえ守りきれれば、二人は絶対に大丈夫だと思えた。

 

 

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