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自分よりも他人(周囲)を優先することについて、近ごろ考えている。

これについてはそのうち、自分なりにまとめた記事を投下するつもりである。

しかしその中でも、さしあたって書いておきたいのは、子育てという営為についてだ。

 

子を育てるのは親の義務だとか、さらには無償の愛だとかいう概念が、世の中にはある。

しかしこれは、どの程度まで妥当なのだろうか。

子を産み、育てる場面は、いささか修羅場だ。

子は母の命を削ってまでも生き延びようとし、母は文字どおりに体ごと子に与え、疲弊していく。

母としては身の危険を感じるのだから、子に対する殺意すら、時に生まれるのはむしろ当然のことだ。

産んで守って慈しみながら消し去りたいという、相反する激情の整理もつかないまま、肉体的に時間的に無理なタスクを、何が望ましいのかもわからない初心者ながらに無理やりこなしていくという極限状態。

こういう修羅場をどの程度まで「当然のことだから」「みんなやってるから」といって、受け入れるのだろうか。

生物としてはわりとあるべき姿のような気もするけれど、ここまで精神的にも物質的にも豊かになってきた人間性にかんがみて、俺の中の理性が疑問を投げかける。

別にこんな風じゃなくてもよくね?と。

 

誰かに何かを捧げること、与えることを否定しているのではない。(俺はこのブログで、捧げること、与えることの尊さを、一貫して表現してきたつもりだ。)

ここで俺が言いたいのは、むしろその逆。

この「家族」という形態こそ、「獲得」と「所有」にもとづく資本主義的な様式ではないかということだ。

俺はついに家族を獲得し、家族を守り、家族を豊かにしていくのです。

妻は実家で極限状態で頑張ってくれているので、俺は代わりに会社で仕事をして、帰ってからは洗濯物をたたんで次の洗濯機を回しながらブログを書いて、なんだか意義をもって働いている感じ。

寝る間も惜しんで稼いだ小銭から生涯収入を計算し、ローンを組んで家を買いつつ資産運用で1円でも多く手元資金を増やしては、家族の生活を守り、育んでいくのです。

アホか!!

なぜ個人単位で生活を営まなければならないのか。

これ社会的にも経済的にも非効率だし、個人としては破綻の恐怖に始終さいなまれることになる。

狭いところに追い込まれすぎ。

 

バートランド・ラッセルは、子育ては将来的に国家が担うことになると考えた。

この設計は、もはやいささか古い。

中央集権は無駄なコストが多くて非効率だし、権力と資金が集中するとリスクが増える。

今後もたらされるべきは、ブロックチェーン的な、動的で広くゆるいつながりだろう。

俺の怒りと苛立ちは、絶望ではなく希望にもとづいている。

 

 

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